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eclipse

 きっと意味のないところで鳥は鳴かない。
 そう教えてくれた人の想い出はぼんやりと、竹と樹々で陽の光を阻んで薄っすらとした公園の記憶と共にある。ただそれが幾つの時だったのかは思い出せやしないし、ましてやそんな公園があったのかすら疑わしいくらい、今ではアスファルトに靴を擦り減らし陽を遮るのは鉄筋コンクリートのビル群という大都会を歩く日々。鳥の声は聞こえるようで聞こえず、排気ガスの音が減ったとはいえ、アスファルトとタイヤのゴムとの摩擦音は軽減されるでもなく、時速4,50キロでも風を切る音が邪魔をする。よくもまあこんなにも車は走るし人は多いし、何が怖いってこの街だけでなくて、ちょっと何十キロ離れた先でも同じように人が溢れてて何を考えてるのかもわからずにケーブルのないイヤホンを耳に入れて歩きながら、液晶の文字盤を触っている。
 鳥が鳴いていても、ここでは声が届かない。

 感情を見せないパソコンと見つめ合いながら、誰がやっても変わらないような作業を終えて、無機質な鉄筋コンクリートから逃げるように退勤する。駅構内は仕事帰りの人々で溢れ、まるで蟻の巣に一列で入っていくように電車へと乗り込んでいく。熱気と肌に囲まれて蒸された車内では、誰も声を出すことはない。目は開き、狭い中でも踊りのような滑稽な姿勢で液晶を眺めて何かを打ち込んでいる。誰かの腕が下半身にあたり、すぐにスッと引いた。意図的なものではなく仕方のないものだとはわかった。むしろこの車内の中で感情に触れた唯一の瞬間であり、何かが色づいたような気すらした。それほど、私の目からは乗車する人々に色味を感じられない。もちろん、私も一緒だった。

 駅に着いて近くのコンビニに立ち寄って夕食を探すけれど、食べたいと思えるものが一つもなかった。鳥の鳴き声が好きなあの人は、野菜をよく食べていた。野菜ごとに色が違ってその色が栄養を含んでいるような気がする、そんなことを言っていたのを思い出したけれど、ここに売っている野菜は私の色覚が色を捉えていても身体が色を捉えていないようだった。お腹が膨れればそれでいいと思い、結局唐揚げ弁当と缶ビールを購入した。

 明かりをつけると薄い橙色に部屋が包まれて、カーテンの濃い灰色もベッドのシーツの白も少しだけ色を纏ってくれた。壁には何も飾ってなく明かりを反射するただの白いビニールクロスだけが一面を覆い、彩度のある家具も何一つなかった。男みたいな部屋だな、と会って一度きりのたいして思い出すこともできない顔の男に言われたことがある。黒枠の液晶テレビをつけると鬱陶しいぐらいに色が溢れだしてくる。でもその色にも慣れるといつしか色を感じなくなってしまう。楽しそうに笑う声も、夢中になって語る言葉も、注意を示すエフェクト音も、心を昂らせるBGMも、目を惹きつけようとする広告も、スピーカーから聞こえてくる音は耳に入る前になぜかノイズへと変わる。コンビニの唐揚げ弁当の薄明るい茶色い衣も、ごはんの上にのせられた梅干しの紅も、本当の色なんだろうかと疑ってしまう。何もかもが嘘で漂白されてしまい、光は偽りで阻まれて私の前で色を失っていく。音も届かない。それが本当の声でなければ、感情のない無機質な声では届かない。

 口に含んだものを流し込むためにビールを缶のまま口にあてがい流し込む。塩分とデンプンの糖質が麦芽の液と混ざり合い、口の中では炭酸が頬の内側の口内炎を刺激してそのまま喉を通り過ぎて行き身体に落ちていくのがわかった。次の電車を待てずにエスカレータを走りながら降って駆け込み乗車をするように、私の空腹を満たすためにどんどん食材とアルコールが身体の中を降っていく。私の内臓は色を感じ取ることが本当にできているのか。何かが入り分解できれば満足で、満腹の指令を脳に送り出せばそれで良いのではないか。
 結局いつもそんな風に、全てを受け入れてしまう。飯は食えればいいし、仕事はお金をもらえればなんだっていいし、たまに男に偽りでもいいから愛を与えられればそれでいい。そんな色のない世界が一番嫌だと拒絶していても、どうやっても色のある世界が見つけられない。誰の言葉も心の中に染み込んでいかず、川を流れる丸石のようにただただ流れて削れていく。どうでもいい大量の言葉が、私の中の何かを削ぎ落としていく。カンナみたいに優しく削って美しく磨かれていくのとは違う。周りに潜む感情という色のない全てのものが、私の中にあったはずの大切なものを蝕んでいく。伝染病みたいに人から人へ。黒い絵の具が染み渡って全ての色を潰してしまうように。

 テレビを消して小さい方の液晶を眺めた。世界的なコミュニティを作れるアプリケーションでは、毎日多くの人が感情をあらわにしているようだった。ここでしか、自分の色を出せないのかもしれない。そんなことを思って私は大量の短尺な言葉たちを眺める。今日あったこと、面白かったこと、考えていること、伝えなければならないと使命感を感じていること、すごいこと、不思議なこと。様々な色を一人一人が剥きだそうとしているように見えた。あの人の言葉を思い出した。
 ──きっと意味のないところで鳥は鳴かない。
 意味のないところでは鳴かずに、みんなここで鳴いている。外すらも無機質なのであれば、無機質なデジタル空間に色を出そうとしている。外で声をあげても無駄なのであれば、デジタルの中で色を出さなければならない。色の三原色よりも、光の三原色。感情はデジタル空間の中でこそ色を出せる。それは単なるRGBではないのかもしれない。無数の0と1が作り出し組み合わせられた電子信号から生まれる色の感情。みんな感情を露わにして求愛のように鳴いて、いいねという愛をもらう。これが、今の色のある世界なのかもしれない。
 けれどその色はバラバラに溢れていて、しかも色んな鳥の声は鬱陶しくなかなか私に向けられた求愛のさえずりは届かないようだった。そして、同じ鳥同士の縄張りの鳴き声も多くみられた。一種の鳥の鳴き声は同じ種にしか届かず、一つの意見という縄張りを主張する荒々しく黒々しい鳴き声は、対立した意見へは届かずに、別の種は嘴を尖らせ攻め立てる。右から左へ攻め込んだ鳥を追い立てるように左から右へと反旗を翻す。色と色がぶつかり合って、結局黒く濁ったものが残るだけだった。

 私は缶ビールを再び口にあてがい、今度はアルコールを味わうように口の中に含んで、あの静かな竹林を頭に思い浮かべながら喉を潤した。薄暗い木々の中を細く差し込んだ光が、青々しく濃い葉の緑と竹の薄緑、逞しい樹の幹の焦茶。あの公園は命の色を私に染み込ませていってくれた。あの場所で鳴いていた美しい鳥の声は私に向けられた求愛のさえずりではなかったが、確かに私にはあの鳴き声が心に深く届いていた。
 黒く濁ったものが、細く差し込んでいた光を阻んでしまう。多様な色も多種の鳴き声も光の遮られた鳥籠の中で、色を描き、主張の強い音を出しているだけだった。鳥が鳴いていても、私には声が届かない。

 黒く濁って彩度を失うのではなく、光を取り込める色に混ざり合うことはできないのか。そう考えて、薄茶色の衣のついた唐揚げを一口で頬張った。

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