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折られた翼

 道端に靴下が落ちていた。
 昼間、車通りの多くない住宅街にポツンと置かれた小さな畑の小脇に片足分だけ落ちている。誰かが避けてくれたのかところどころくすんで黒ずんだ車道外側線の白の上に、まだそれほど使い込まれておらず汚れていない無地で白色の靴下。スポーツメーカーのロゴが入っており子供サイズではなく、大人用のサイズではあるが男女どちらのものか区別はできない。
 一昔前であれば男性のものであろうとすぐに直感できたが最近スポーティーな服装の女子学生も多く、この間みた高校生はスカートとローファーという制服姿でこのメーカーの靴下を履いていた。どういう意図で彼女がそうしたコーディネートを行なっているのかはわからなかったがその後も同じような出で立ちの女子学生を幾度となくみてきた。このメーカーのスニーカーを履く女性も増え、大体がこの靴下とセットで履いている。スポーティーな格好ではなく柔らかで落ち着きのある服を着ている子でもそうだった。どこかの誰かが火付け役となったのだろう。マッチとは別で、一度ついた火がなかなか消えない。一体どんな燃焼材が使われているのか。
 風は穏やかではあったがどこかのベランダから飛ばされてきたのか、それとも片一方だけ落としてしまったのか。誰かがここで靴下を脱いで裸足になり持ち帰るのを忘れてしまったのか。いや一体誰がこんな住宅街の畑の前で靴下を脱ぐのだろうか。どれだけ考えても答えは見つからず、白い靴下をしばらく眺めたのちに拾わずに前を向いて駅へと向かった。

 昼間の平日だからか都心へと向かう電車に乗り込むと乗客は少なく、多くの座席が空いている。腰を下ろした車両の端の席の向かいには、黒く透き通った髪の女性が座っていた。前髪は切りそろえられているが、筋の通った細長い鼻と少し厚めの赤い唇のおかげで幼くは見えない。濃いアイラインに挟まれたつり目には、あらゆる男がひれ伏してしまいそうな力強さと艶やかさがある。気怠そうに液晶の画面を見下ろして何を考えているのかもわからずまた何をしているのかもわからなかった。数分後に違う駅に着き、また数分後にさらに違う駅に到着する中で乗客は徐々に増えていったが一心に彼女のことが気になってしまう。ただ整った顔立ちだけでなく奥底に妖艶さを兼ね備えた瞳がそうさせるのか、黒地に何とも説明のし難い総柄のシャツの大きく開いた胸元がそうさせるのか。電車の中で声をかけるなんて全く今の時代にそんな積極的というのか短絡的というのか一昔前にいたような「可愛い女の子を前にして声をかけない方が失礼」みたいな発想は持ち合わせてはいないが、何としても黙って液晶を見ながら微笑むその口を開きたい。
「何をジロジロ見ているんですか」
 どれだけ前のめりになっていたのか、数秒前の自分を客観的に見つめ直すことはできず、それ以上に早く何かを言葉にして返さなければ。思考だけが巡り巡って今この場でなんて返すのが正解でなんて返すのが不正解なのか、ただその答えだけを求めてしまっていたせいで、せっかく開いた口から発せられた少し鼻にかかったような声が高かったのか低かったのかも判断がつかず、さっきまでの微笑みが今はどんな表情になっているのかは確認のしようもなかった。え、いや、ちょっとその、外の景色を。すいません。
「外の景色ならそんな吃る必要も、謝る必要もないでしょう」
 はっきりとした低いアルトの声。朝に聴こえる小鳥のさえずりではなく夕刻に聴こえる烏の叫びの声の質だった。その口は見とれてしまう微笑みではなく目を逸らしてしまうほどに固く閉ざされている。彼女は開いた胸元を隠すようにシャツの襟を正して脚を組んだ。裾が上がり、ワンウォッシュの上質なデニムのバギーパンツの隙間から靴下がチラと見える。なぜだかそんな気がしていたが彼女はやはりあのスポーツメーカーの白い靴下を履いていた。今日の昼間に見かけたものと全く同じだった。もう一度脚を組み替えたときにあっと思い、気まずそうに後ろに持たれかけていた腰をまた前に乗り出して言葉にしてしまう。今日靴下落としませんでしたか。
 彼女は自分に声をかけられたのかどうか、あまりに唐突な言葉すぎて何も反応できていないようで、つり目を見開き今までに見たことのないものを見るような視線でじっと見つめられた。すいません。いや、靴下違いますよって思って。
「ダメですか。靴下がバラバラだったら。っていうか気持ち悪いからもう話しかけないでください」
 彼女は靴下を隠すように組んでいた脚を下ろし壁に腰をもたれかけて目を閉じている。もう一方の靴下は同じように有名な三本線が特徴的なスポーツブランドだった。やはり今日見かけた靴下は彼女のもので、片方をはいたのちにもう片方を履こうと思ったが見つからず、ただし急いでいたから他の揃っている靴下を探すことなく左右違いで履いて出てきた。今日の服はどれにしようか、どんな化粧にしようか、どうやって髪をセットしようか。そうして時間があっという間に過ぎていき目的の出発時間に靴下を履こうと思った時にバラバラになってしまう。この考え方が至極まっとうなのではないかと自分を納得させる事で彼女から蔑まれた言葉を思い出さないようにしていた。彼女は依然目を閉じたままで、接触を完全に遮断していた。それは至極まっとうな態度だった。見ず知らずの男にジロジロ見られたかと思えば靴下の違いを指摘されるなんて。これが逆の立場でも気持ち悪いと口にしてしまうかもしれない。

 それまで外を走っていた電車が川を渡り県を越えていき、地下に入っていくと乗客はいつの間にかかなり多くなっていた。座席は埋まり、彼女と自分の間にも数名の男女がつり革につかまり揺られている。彼女の姿は人の隙間から少し見えるだけで、ほとんど確認できなくなっていた。車内を見渡してみると昼の時間だからか年齢層は若く大学生ぐらいが多く、またしてもあっと思った。男でも女でも、なぜか靴下が左右違いだった。彼女と同じような履き方をしている。一つ違うのは右足に履かれた靴下だった。同じような白い靴下なのだが三本線だったり、無地であったり、全然違う素材であったり。ただ決まって誰もが左足に躍動感のあるあのロゴを履いていた。ルーブル美術館に置かれた彫像のことを思い出し調べてみると、左片方しか翼がないように見える角度から撮影された写真が確かに既視感があるとは思ったが、頭部はなくとも勝利の女神の翼は左右についている。そういえばゲームのキャラクターには片翼の天使というのがいたなとは思ったが、彼は右翼だった。
 どこからこの靴下のスタイルに火がつき彼らへと燃え広がっていったのかは最後までわからなかった。流行に乗って最先端をいっていると自負していたであろう彼女からして見れば確かに見当違いな質問だったのかもしれない。そして流行も知らない男は気持ち悪い存在なのかもしれなかった。
 帰り道にまだ落ちていたら、女神の折られた翼は拾いにいこう。

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