不浄

不浄

 ゆっくりと静かに開かれた扉からは女性が出てきた。このタイプの扉であれば多少は金属の擦れる音がしそうなものだが、木琴を綿糸のバチで優しく打つように小気味良く取っ手を捻った音しかしなかった。音を表したように軽やかでいて落ち着きのある若い女性で、彼女は爽やかな甘みのある、あれはなんという花だったか白く艶のある花びらが頭に浮かんでくるような香りと一緒に、すみませんと息を吐く程度に小さい声で狭い通路を私を避けるようにして通り過ぎていく。ウッドの床に響く厚いヒールへ視線を向けるが、お腹の具合は正直なもので一瞬で姿を目に焼き付けたのちに慌てて扉の中へ駆け込んだ。

 一分一秒を争う自体とはこのとき以外に本当にあるのだろうか。映画のように時限爆弾を解除するなんて通常生きているうちは到底お目にかかれないシチュエーションであるし、おそらくどんなに仕事が忙しくても秒単位を争うのは競技スポーツを一旦置いておくとしたらほとんどない。と扉が開くのを待っているときにずっと考えていた。何かを考えていないと身体は構造通り、生物の仕組み通りに穴をめがけ素早く事を進めていってしまう。

 20年前ぐらいのチャート最上位の懐かしの名曲はゆっくりと雫がしたたり落ちるようなバラードだったが、それの二倍速のリズムで足踏みをしていた。早く中のやつ出てこいよどれだけ待たせるんだよと声にならない苛立ちと、心の隙間一つもないほどの腸の危険勧告は、彼女の姿のおかげで少しの落ち着きを見せた。というのか実際は少しの間だけ気が紛れただけであって、扉の中へ入り便座の蓋が閉まっていると気づいた瞬間に額から汗がしたたり落ちていった。
 パンツのチャックとベルトのフックはすでに外してある。右手で蓋を上げ左手でパンツを下ろす同時に行われた所作は空手の型のように完成されたもので、蓋を上げてから座るまでにかけてはタイソン・ゲイよりも速いかもしれない。その圧倒的スピードの前では思考も追いつかず、全ては機械的な精密さと動物本能的な感覚のカオスで行われたものであった。タイソン・ゲイも空手も事が終わりトイレから戻った後になんとかあの所業を伝えようと必死になって同僚に聞かせたもので、喫緊したあの場面では何も考えていなかった。
 便座は全ての罪を受け入れ許しを与えるかのような温もりを持ち、安堵した私は懺悔をするかのように全てを吐き出せると感じた。こんなに便座が心安らぐ存在になったのはこの数十年の話だ。それもこの極東の地にしか普及されていない。日本にとって暖かい便座は、厳しい冬にも温もりを与え、万人の穢れを洗い流してくれる敬虔の対象物なのかもしれない。
 便座の温もりに許しを請う罪深き尻から、肉の壁が分厚く脳に伝達するまで幾らかタイムラグがあったが、先ほど廊下ですれ違った身体のラインを強調する白地のワンピースから浮き出た丘陵の姿が映像として入り込んできた。どっしりと構えすぎず、小ぶりで突き上げるように引き締まった筋肉の上層部と、なだらかな脂をのせた下層部は絶妙なバランスでその弾力が便座越しに伝わって来る気がした。物質に触れた瞬間にその物の見た記憶が流れ込んでくるサイコメトリーを思い出す。
 彼女は確かにここに座っていた。
 白い便座が持つ暖かさは彼女が与えたものかもしれない。だからこそ崇めるべき対象として穢れを全て受け入れてくれる神とも呼ぶべき存在と捉えてしまうのは、彼女というマリアの温もりと臀部の柔和な感触が産み落としたイエスを感じてしまうからかもしれない。
 細長く筋の張った首の下のくぼみからワンピースに包み隠されながらも縦へ続いていくであろう背の直線をゆっくりとなぞり、熟した果実のように豊かな甘美の曲線を想像して、便座から伝わってくる柔らかな熱が全身へ伝わってくる。前方へ血液の凝縮が行われ始めていることを感じながら全てを放出した。腰回りは熱を帯び痙攣するように、全身から何かが抜け出ていくような解放感を得て絶頂に達していた。記憶が曖昧になるほどに全身を駆け巡った熱と、放出による悦楽と共に低い声を漏らしてしまっていたのではないか。流れ出ていく瞬間をはっきりとは覚えていない。
 内側で蓄えられていた熱は外に出ていき、しばらくすると性交の後に似た静かな冷えが訪れた。残った穢れを水洗する。射出された液を優しく口で拭ってくれるような温水は再度身体に電流を駆け巡らせたが、それも一瞬のことで頭ははっきりとしていった。

 トイレットペーパーは丁寧に切れ端の両端を三角に揃えられていた。ここにも彼女が触れた痕跡が残っていたが、もうこの時には一度経験した女との慣れに近い何かを頭の中で認識してしまい、特に想いを馳せることはなかった。それどころか、このトイレットペーパーは手を洗う前に折りたたまれたものだから雑菌だらけなんじゃないかと非難さえ頭を過ぎった。
 ペーパーを引っ張り出すとアルミの抑え蓋が厭に軽快に金属音を立てた。3回ほど折りたたんで便座の中へ手を入れる時に、ああ、彼女も尻を拭くんだろうなと唐突に思った。あれだけの美貌を兼ね備えた穢れなきように見える人は、自身の汚い部分にどう折り合いをつけているのだろうか。便座の中を覗き見るように紙の拭き取った部位を確認すると雨と砂が混じりあったような色が染み付いていた。

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