公務員の誤解 明石の室長の愚 三権分立を文でしか知らない役人の愚

 明石市のストリートピアノで、禁止されていた合奏に対し、母のピアノ、子のバイオリンの合奏が公務員に注意されて中断した件。

 注意した公務員は規則に従っての行動であろう。職責に忠実だった職員を誰も責めることはできない。
 市長の対応でルールが変わったこともうなづける。 問題が生じた場合の対応は早いに越したことはない。

 問題は明石市の一室長がフジテレビ系の取材対応で発した言葉である。
 ルールを守らせなくて事故が起きた場合はどうするのかという内容で自らの不満を表明している。

 しかし市長がすでに方針変更を出しながらも、この室長は自分の不満を漏らした。

 さて、役人とは行政の配下の者であるである。
 行政には、決められたルールや指示を粛々と遂行することが求められる。
 ルールを決定するのは議会であり、行政の徒である役人にルールについてとやかく言う資格は無い。
 いや、三権分立の観点から見ると、ルールについて行政の徒である役人が発現すること自体が問題なのである。

 古来から行われてきたいくつもの政治形態においての最大の問題点は「能力が欠如している者に権力が集中する」ことである。
 優秀な国王ですら年齢とともに衰え、判断を誤り、能力の無い取り巻きに仕事をゆだねることになる。
 全体主義や共産主義においても最終的には権力の集中を招き、腐敗を招き、国力の衰退を招く。

 これに対する苦肉の策が「三権分立」である。
 ただし、これが決定的な正論ではなく、現状では最良の手段でしかないのだが。補助機能として、スキャンダルでのボーナス稼ぎではない、まっとうなジャーナリストなどが必要とされる、まだまだ不完全なものではある。

 さて、三権分立の根本は、ルール決定と実行と審査の担当者を分けていることである。決定する立法と実行する行政と審査する司法・・・非常に単純な表現ではあるのだが。

 つまり、行政は実行するのみで「行政が判断しルールを作る」べきではない。
 「実行する行政」が判断とルール決定を始めると権力集中が始まり、結果として国民の不公平感からのやる気の無さや、国の衰退が生じる。
 行政は、官僚機構と呼ばれようが他の形態であろうが、「機構」として粛々と立法の決めたルールを実行するだけにとどまるべきなのだ。

 もちろん、上記は原理原則である。
 実際には、行政の中で細則を決める必要は生じる。
 しかし、行政の徒である役人はこれを「三権分立の精神から評価」し続けながら行わなければならない。

 さて、明石市の一室長の発言には、実行者である役人の傲慢さが満ち満ちている。
 内心でそのように感じているのは全く問題は無い。全くの私人として発言することも問題は無い。
 しかし、その内心を「室長として」マスコミに対して発することは、行政の徒として、三権分立を無視して、自分の意見を通そうとする行動への端緒である。
 真に政治体制を理解するものは決して発言しない政治批判を公務員が行う、それも私人としてではなく室長という役人の立場の上で行う。
 これ以上の増長があるだろうか?

 同じことは国家官僚にも言える。
 国を動かしているのは自分たちだと誤解する官僚たちや役人たちである。
 三権分立を「文章でしか理解していない」愚者たちである。

 このような役人に行政を任さざるを得ない日本の状況は、北の大国や中華の大国に比べればかろうじてましな程度でしかないことが、非常に残念なことである。

 文章を憶えるだけではなく、その根源を理解する人間が増えることが、結果的に「安定し成長し進化する社会を作る」ことをもう一度考える必要があるだろう。
 単に「記憶力と出世欲が優れている」ものが出世する行政の人事についても改正する必要があるだろう。

bye

ありがとー