単細胞と多細胞の次に来るものは?

・単細胞 と 多細胞生物
・寡体生物 と 衆体生物
・集権制 と 分散制

注意:下書き段階での公開ゆえに、誤字脱字を覚悟して読んでいただきたい

複体生物

 単細胞生物は細胞内の電気や化学的な方法で、各機能間の『調整』を行う。
 多細胞生物でも、細胞内はもちろん、細胞間や器官の間で、電機や化学的な手段で、体全体としての『調整』をする。

 単細胞生物でも多細胞生物でも、電気や化学的手段で全体としての『調整』を行うことは、一種のコミュニケーション(協議や命令はともかくとっして)と考えられる。

 では、多細胞生物の次に来ている(既に来ている)ものは何であろう。
 答えは明確であり、生物の群れであり社会であり村であり国家であろう。

 人間以外にも、生物は物理的に隔たっている個体と固体の間で、フェロモンや動作や音によってコミュニケーションをとり、群れから国家までの全体としての調整と行動の決定を行っている。

 人間に至っては、音である言語を文字にすることで群れとしての知識を記録することまで行う。
 更に、図や文字によって記録された知識や設計図は、群れとしての遺伝子に相当する。
 子供は親たちが残した文書や設計図を基に社会秩序を維持しインフラとしての機会や上下水道や発電・送電設備を作り上げる。

 人間一人一人が微細なものとして目に見えないほどに巨大な生物から見ると、地球上で田園や人工林や都市が植物のように繁茂し広がってゆくのを見て、これを生物とみることもあり得るだろう。

 つまり、単細胞から多細胞へとつながった生物は、次に、多くの肉体を持ち、音声などで機関(=器官)の間のコミュニケーションをし、文書などで遺伝子(ミーム)を保存する『複体生物(複数の肉体を持つ生物)』へと発展している。

寡体生物と衆体生物

 複体生物を分類すると、寡体と衆体に分かれる。
 この差は便宜的なものであり、寡体生物は文字通り『肉体数の少ない群れ』である。
 当然衆体生物は『肉体数の多い群れ』である。
 しかし、双方の差(比)は相対的なものであり、寡体が1体~数体で衆体が数十~数千の場合もある。
 現在においては、衆体生物の個体数は数億人(イスラム教などの宗教も衆体生物と考えられるから)に達しているともいえる。

集中制御と並列制御

 衆体生物はどのように『意思決定』を行うのか。
 人間の歴史を振り返ると、まずは群れとして協議と長による意思決定という、独裁と協議の混在した状態から始まっていると思える(これは恣意である。もっともこの文章自体が恣意である)
 次いで、権力の集中が短期間での意思決定を可能とすることから、中央集権制度が発展する。
 しかし、中央集権は権力サイドの腐敗と怠惰を生み出して非効率なものとなり、これへの反発から『いわゆる民主主義』が生み出される。
 ただし、民主主義は『いわゆる民主主義』であり、『良き独裁者』を持つ中央集権制は絶えず民主制よりも効率が良いことから、集権制と民主制は生まれては消える盛衰を繰り返すことになる。
 ちなみに、独裁制・王政は『考えるためのエネルギーを嫌がる本能が生み出す状況』ともいえる。民主制では、『人民』は『政治を考えなければ』ならない。考えることはエネルギーを要し、生物として本能的に嫌がることである。だから人は本能的に『自分で考えずに上から指示される』ことを選ぶ。これが民主制から中央集権制に変化する社会の構造である。
 以上が現状であり、権力の集中=寡占や独裁制度としての『集中制御』と、権力の分散=いわゆる民主制が競争する世界である。

発展した文明が可能にする、効率の高い並列制御

 しかし・・・文明が発展し、個人個人に衣食住や娯楽が行き渡り、教育も高いレベルで行き渡ると、並列制御が始まる。
 ただしこれらに加えて、ネットワーク社会で例えられる高度・高速・多様なコミュニケーション、いわゆるネット社会が必要となる。
 社会全体のことを考えられる余裕(十分な衣食住や娯楽)と、俯瞰的に考察できる高水準の教養(文理双方の教養)を全住民が持っていても、高速なコミュニケーションを可能とする『ネット社会』でなければ、『効果のある短時間での方針決定と実施』ができる『分散型の衆体生物』は存在しえないのである。
 ここで、『短期間』とは、『良き独裁者を持つ集権制』に匹敵する時間での意思決定と実施を意味する。
 延々と議論を繰り返して有効な手段をとれない『民主主義国家』は『良き独裁者を持つ集権制』には敵わず、滅ぼされてしまうからである(極論としてではあるが)

さて・・・

 さて、21世紀の人類はどのようにサイコロを振られるのだろうか。
 考えたくない本能が支持する『集権制』なのか、高度の機械文明を必要とするし個人個人に責任が生じながらも結果的に良き方向に向かうであろう『分散制』(いわゆる『理想的な民主主義』=どのような形態なのかは誰も知らない)なのか。

恣意的には『分散制』を望んでいる

 集権制は『良き独裁者が無限に続く』ことが存続条件として必須であり、歴史はこれが不可能なことを証明しているのだから(繰り返すが、恣意である)
 しかし、愚かな独裁者を持つ集権制との競争で生き残る確率は・・・それほど高くない(と、これも恣意する。祈り)

bye

ありがとー