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愛欲心中

 顔を合わせた瞬間、「あ、だめだ」と思った。決してぱっちりとは言えない、眠たそうに瞼の落ちた物憂げな瞳と、歳の割には白髪が多く混じったこげ茶の髪と、低すぎず、高すぎず、心地よい速さとトーンの話し声。自分の心臓が明らかに大きな音を立てているのがはっきり感じられた。
 面倒なことになる前に距離を置くべきだと感じていたのに、なるほど自分の心ほど分からないものはない。操りきれないものはない。いつの間にか顔を合わせる機会をうかがい、無意識に彼の姿を探している自分がいた。やさしい淡いブルーのシャツと、目の覚めるような濃いブルーのスーツの対比が美しく、どこにいても目で追ってしまう。自分の心なのに、止める術が分からない。渦に飲み込まれていくような、少しずつ溺れていく息苦しさと、じわりじわりと甘ったるい毒に脳を侵されていくような感覚だった。

「お疲れ様です」
「…おつかれー」

 彼は知らない。私が、どんなにタイミングを見計らって煙草を吸いに行っているか。たった五分間を隣で過ごすためにどれだけ計算をしているか。会話なんてほぼない。私が話しかけなければ、彼は煙草をくゆらせながら業務用の携帯電話をじっと見つめ、フィルターぎりぎりまで煙を吸い込み、火を消して、無言で立ち去っていく。

「……あ、忘れてた」

 ちらりと目を向けると、彼が私に向かって煙草を一箱差し出していた。彼の銘柄ではなく、私の愛煙している銘柄だった。

「はい。お返し」
「……私があげたの、二、三本だったと思いますけど」
「利子だよ。その代わり、また、ない時はちょーだい」

 優しげな微笑みと一緒に差し出された煙草を受け取り、ありがとうございます、とお礼を告げると、彼がぷっと噴き出した。

「いやいやそれがお礼だから。無限ループしちゃう」

 楽しそうに笑う彼を見て思う。この笑顔に弱いのだ。いわゆるギャップというやつだ。仕事中の彼からは想像もつかない柔らかな表情。一日の中でこの笑顔が見られただけで、私はまるで宝物を見つけたかのような気持ちになる。

 肩が触れ合う距離にいるのに、その距離は縮まらない。彼は気づいている。私のこのどうしようもない感情に。気づいていながら、それをあざ笑うかのように一定の距離を保つ。けれどそれ以上に離れることは許さないかのように、まるで自分に堕ちてこいとでも言いたげな態度をとる。

「そういえばさあ」

 もうこれ以上ないくらい短くなった煙草を灰皿に投げ入れながら、彼は私と一瞬目を合わせる。どきりとした私をよそにその目線はすぐ逸らされ、彼は言葉を続ける。

「おまえ、最近俺の夢見んの?」

 何日か前に、私の夢に彼が現れたことがあり、話のネタになるかと思いそれを話した。その時彼は可笑しそうに目を細めて、「俺のこと大好きかよ」と言っていた。彼のことだからそう返してくるのを分かっていたのに、分かっていたはずなのに私の心臓は大きく跳ねた。あまりに響く自分の心音が彼まで聞こえてしまうのではないかと思った私は、「そうですねー大好きですねー」とわざと乾いた笑いを作って誤魔化した。そんな会話を思い出しながら、いえ、最近は見てないですよと、あくまで平静を装って返事をした。

 ふぅん、と興味なさそうな反応をする彼の目は、今度は真っ直ぐに私を捉えていて、ぴりっと空気が変わるのを感じた。

「俺は見たよ。おまえの夢」
「……え、」
「夢の中だと素直だったなあ」

 何が言いたいんですか、と、言ったつもりだった。しかしどうやら私のその言葉は、「何が」くらいで掻き消されていたらしい。何ヶ月も、縮まりも離れもしなかった二人の距離が、途端にゼロになった。何が起きているのかを理解したのは、彼のかさついた唇が、名残惜しそうにゆっくりと私の唇から離れていった時。

「……なんつう顔してんの」
「な、にを」
「もっとしてほしい?」

 すげえそそる顔してるよ、おまえ。低い声でそう囁かれ、親指で唇を撫でられて、背中がぞくりと粟立つ。この男は、どこまでも、どこまでも、私の心をかき乱す。そんなことかまやしないと、誘われるままに理性が溶けていく自分がいる。だからだめだと思ったんだ。こうなることなんて、とっくに分かっていたのに。戻れなくなることくらい、痛いほど分かっていたのに。

「内緒にできるなら、一緒に堕ちてあげる」

 耳元でそう言われて、もういい、と思った。この声が、目が、唇が、一瞬でも私のものになるなら、それ以外は全て捨ててもいい。なす術もない哀れな私を嘲笑って。蔑んで。そして一緒に堕ちて。

 彼のスーツの襟を掴んで引き寄せて、今度は自分から、噛み付くようなキスをすると、彼はほとんど息のような声で「捕まえた」と言った。

愛欲心中

(愛と呼ぶのかさえ分からないけれど)

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Sugar/嵐

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