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【精神を病んでる人へ】「生」と「死」は表裏一体だという話

突き上げる熱い想いが 書きなぐった 血の色のPaintings
まるでキューブな自己実現
生きるために生まれたんだと 確信する色 
(ヤプーズ 赤い戦車 より)

こんばんわ。ハードスケジュール週間が幕を開けようとしている美川です。どれくらいハードかというと、毎日10km以上移動し、そのなかで学業もバイトも遊びもネットでの活動もぶっこまれたくらいにはハードです。

【序論 「血」の表すものはなにか?】

この歌詞は、戸川純氏がヴォーカルをつとめるバンド「ヤプーズ」の「赤い戦車」という歌詞の一節。

暗示してるのみですが、この曲は

自傷行為をして、血を流す

という情景を歌にしたものです。

この曲のコメント欄に面白いものがありました。

「リストカット行為をするのは、死にたいからではない。自分を傷つけ、血を流すことで『生』を感じたいから。」

自分の体を傷つけることによって、逆に「生」を実感する。

芸術的じゃないですか。

もちろん、しないことにこしたことはないです。

重要なのは

「死」へ近づこうとする行為が、かえって「生」を際立たせる

ということです。

「血」と「生」というテーマは、(元)ヴィジュアル系ロックバンド「Dir en grey」の新曲、「The World of Mercy」においても強調されてます。

この曲のキャッチフレーズとなっているのが

「血を流せ。お前は生きてる。」

・・・最高。

血潮は絶え間なく体の中を巡り回っている。生命活動の停止は、血液循環の停止を意味する。「血を流すこと、それがお前の生きてる証拠だ。」という、「生」への突き上げる情熱を感じました。

このように、「血」は「生命」を表すものとして、我々の世界に存在しています。

かの有名な「手のひらを太陽に」の歌詞にも

血潮

という単語がしばしば入っています。この「ちしお」、小学生のころはなんなのか全く分からなかったのですが、「」だということを知ったときは、幼心ながら、生々しさを感じてました。

手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮

「ぼくの血潮」を見ることにより、「ぼくら」の一員である「ぼく」もまた「生きている」ということでしょう。ああ、こう考えると最高の生命讃歌じゃないか!!!!!

一見「死」を想わせるような、「血」を流す行為。実はこれは、「生きる」という全く逆のことを際立たせるもの。

といえるかもしれません。

【本論① 「生」と「死」は表裏一体】

「血」を流すことが「生」を表すことは序論で述べました。

この方式は、「血」を「生」に置き換えた、「死」と「生」にも当てはまるかもしれません。

本当にそうなの??詭弁じゃねえの???

ということで、これが本当かどうか確かめるために

とことん死のうとしてみましょう。

そこで参考になるのが、同じく戸川純女史の曲「Not Dead Luna」

この曲の主人公は、人生に絶望したのか、とことん自殺しようとします。

しかし、スーパーマン並の耐久力をもっている、もしくは彼女がクリプトン星人なのか、全く死なない。

塩酸も飲んだし 頸動脈も切ったが
私は死ななかった 死にゃしなかった

頸動脈を切られれば、さすがのDIOでも致命傷を受けそうですが、それでも死なない!!!

5階から飛んだし 信号も無視した
だけど死ななかった 死にゃしなかった

ここまでくると逆に「死なない天才」です。

Not dead lunaの主人公は、とことん「死」に向き合う。だけど、「死」のほうは一向に構ってくれない。

そんななか彼女は、「月」の美しさに見とれます。

そして急に 恋に堕ちた 夢中になった
もうガンガンに愛し合った 幸せになった

彼女のなかで何かが覚醒したのか、変化し始めます。やがて

あれからもっと仕事をした 夢中になった
もうガンガンに働いたら 金持ちになった

最高です。社会的な成功もおさめました!!

序盤は死ななかった、死にたいから。 というネガティブフレーズでしたが やがて

断腸の想いで 絶望見るときも
私は死なないだろう 死にゃしないだろう

と、死を超越した最強人間になります。
肉体的だけでなく、精神的にもスーパーマンになった!!いや、スーパーマンを越えて、ドクターマンハッタンになった!!!(ドクターマンハッタンは、超越しすぎて超越しすぎたやばやばのやば人間です。)

巨大化し、ベトナム戦争で大活躍するゴジラみたいなブルーのぱんいちおっさん。

「NOT DEAD LUNA」は、「死」と真剣に向き合った結果、「やっぱり生きる方がラクでいいわ」と自殺を思い止まる(とどまってないけど)という物語を持った曲です。

「死ぬ」労力を、「生きる」ほうに使った方が効率いいぜ!!!

というドチャクソハイパーポジティブな、これまた「生命讃歌」でございます。実際に、塩酸飲んで、赤信号つっこんだりする勇気を「恋愛」と「仕事」に向けて、成功してますし。

「死」を見ようとすればするほど、逆に「生きる」ことの素晴らしさが際立つ

ような気がします。

【本論②「死にたい」のは、「生きたくない」から】

ベストセラーを叩き出しまくってる、精神科医の樺沢紫苑さんは次のようなことをいっています。

「死にたい」と思うのは、「生きたくない」から。これは極めて消極的な理由なんですよね。消去法。

確かに、「死にたい」というのは、「うまいラーメンがくいたい!!!」「ソックスしたい!!」「カノジョほしい!!!」といった、自分からつかみにいくような要望ではないんですね。逆に、これもだめ。あれもだめ。あーあ、じゃあ「死ぬ」しかないな。「しのー」という、かなり受け身の要望なわけです。

もし、「死にたい」というのが、自分でつかみとりたい!!要望だったらやばいです。狂キャラ。上記のNot dead lunaの序盤みたくなってしまいますw

「死にたい」なら、なぜ死にたいか? その「死にたい」という欲望と真剣に向き合ってみるといいと思います。

納得できる理由は、あまりでないとおもいます。なぜなら「死にたい」というのは「消極的」な欲望だから。

「死にたい」積極的な理由として、「歴史に名を残したい」「誰も経験したことのないしにかたをしたい」「死ぬことで社会に抗議したい」という理由が挙げられますが、平和な日本社会でそこまでする必要はないでしょう。

死にたいと思ってる人は、「死にたい」と本気で自分が思ってるかどうか。それをまず、自分自身に聞いてあげて下さい。

そうすることで、ネガティブになりすぎたりすることもなくなると思います。

【結論】

精神を病んで、「生きる」ことに希望が見いだせなくなり、死にたくなったら、どうするか。まずは「死にたい」という自分の声をしっかり、論理的に検証してみる。自分の「死にたい」は、本音なのか、それともただ単に「生きたくない」という受け身な理由からなのか。それをしっかり考えてみることが大事。

「生きる」ことの「よくないところ」を見つめすぎるから、ネガティブになる。必死に生きなくても、ある程度人生はなんとかなるもの。まずはゆったりと構えて、自分の好きなことを考えてみよう。

「自分の好きなこと」=「生きる理由」 にしてもいいわけです。たとえどれだけ下らなくても。

「血」から「生」がみえるように、「死」から「生」が見えることもあると思います。

「ゆったりと構えて生きる」というのは、19世紀の作家、ヘンリーデヴィッドソロー氏も『ウォールデン』の中で述べていることです。

だいたいにおいて、我々は「今」を生きていない。

私の「生きる理由」は、少なくとも3つあります。

①マーベルのヒーロー映画を見る
②オ◯ニーをたくさんする
③英語をたくさん勉強する

死んだらこれが全部できなくなっちゃう!ああいやだ!!
だから私は常に「前」を向いて生きています。

いきをすって はくっ!! それが いきるみち ちがうっ?(コジコジ)

美川

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