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■教授から得た教訓 ~木を見て森を知るな!!!~

こんばんは。学生生活が忙しくて、なんやかんや深夜の一時ぐらいにしかnoteを書く気になれない美川憲一です。

教訓シリーズ、二本目となります。前回は「簡単に話すこと」というテーマで「わかりやすく伝えること」のだいじさについて話しました。

前回の記事はこちら

 この記事では「難しいことをシンプルに説明せよ」と言っています。しかしここで勘違いしてほしくないことが一つ。

簡単な言葉で説明できるからといって、その説明だけでわかった気になってはいけない

ということでございます。どういうことか、例を出してみましょう。

 「カレー」を極限まで分かりやすく説明してみてください。少しお時間を差し上げます。

恐らく、出てくる説明は
「スパイスと油と野菜を炒めたもの」
「インド料理」
「おふくろの味」
などの言葉が出てくるかと思います。

極端に簡単にすると
「食べ物」
でもいいわけです。

このように、
難しいもの(カレーという概念)を
簡単なもの(以上に挙げたような説明)
に直すのはさほど難しいことではないと思います。

「キン肉マン」→「マッチョな男たちが戦う物語」、「漫画」
「バーチャルyoutuber」→「リアルタイムで動いてしゃべる美少女」
「映画」→「長い映像」、「映像で見る物語」
「ねこ」→「人類を癒すもの」、「天使」、「アレルギーにもなるもの」
「エジプト神話の神」 etc.

など、身近なものは全て「噛み砕いて解説」し、
「単語」→「わかりやすい説明」へ、難なく
変換できるはずです。

しかし、ここで問題が出てきます。
それは

逆パターンの
「簡単なもの」→「難しいもの」への変換は、
「難しいもの」→「簡単なもの」への変換と
同じようにはいかない

という点です。

先程の逆を考えてみましょう。

「スパイスと油と野菜を炒めたもの」
「インド料理」
「おふくろの味」

これらの説明から、バシッ!と「カレー」という結論は出るでしょうか?
答えはノーです。
「スパイスと油と野菜を炒めたもの」だったら、焼き肉でも、チャーハンでも、他のどんな料理でもいいし、
「インド料理」だって、なにもカレーに限るわけではないでしょう。
「おふくろの味」にしたって、肉じゃがなり自分の母親の得意料理だったりでもいいわけです。

さて、ここでタイトルに戻りましょう。
この場合、

「木」は「おふくろの味」を、「森」は「カレー」を表す
ことになります。
木だけを見て
森全体を想像することができないのと同様、
「おふくろの味」と言われて
「カレー」を想像することはできない

逆は簡単です。
森全体を見れば、その中にあるどんな木でも、すぐに注目できます。
カレーも同様、その特徴の一つとして「おふくろの味」と言われれば
ああなるほどね、と納得するのはたやすいです。

簡単な言葉で説明できるからといって、その説明だけでわかった気になってはいけない

というのは

木の一本を理解したからといって、それだけで森全体の特徴をわかった気になってはいけない

と言い換えることもできるでしょう。

木を見ただけで森全体を理解した気になる。これ、実は今でもしょっちゅうあります。ニュースなどで一つの事柄について集中的に取りあげることで、まるでそれが社会全体の動きであるかのように錯覚してしまう。
こうした危険が、「木を見て森を見る」問題に潜んでいます。

例えば、高齢者ドライバーの例で
事故件数はそれほど変わっていないのに、「高齢者が」起こす事故、それは全体の中ほんの数例、であるにもかかわらず、マスコミが大々的に取りあげることで
「今の日本ではほとんどの高齢者が危険な運転をしてるのか」という勘違いをしてしまう危険があります。

事故は常に起こるもので、加齢による認知能力の衰えも避けられないものです。であるにもかかわらず、
全体の中の数件の事故=「木」を見ただけで、高齢者の事故があたかも悪いもので、たくさん起こってる=「森」
かのように感じられてしまう。

ここに「木を見て森を見る」問題の恐ろしさがあります。

現代は「バズり」=注目 を得るためなら
センセーショナル=ちょう目立つ な伝え方をするのを厭わないことが多いです。

SNSにしろ、ニュースにしろ、インスタばえにしろ、炎上事件にしろ

「注目」を得たいがために
特別な「木」があれば
それをハリウッドザコシショウのモノマネのごとく誇張して伝えてしまう傾向にあります。

ですが、そうした「木」はあくまで「木」にすぎないのです。
誇張されがちな、特別な「木」は
「森」全体の中で数百年一度あるかないかの突然変異の産物なのです。

「木」の特徴 ノットイコール(同じではない) 「森」の特徴

この公式を頭に叩き込んでおくと、今後なにかと役に立つでしょう。
今はとにかく情報が氾濫していますから。
「clearly」=シンプル に 「principle 」=本質 だけを見抜く力が必要です。

本題は以上

はい、なんとか書き終えましたw
書いてる途中でつい盛り上がりすぎてしまい
教授の例を出す余裕がなかったので、余談として挙げときます
(タイトルに 「教授」から得た教訓ってかいとるがな!!オマエ!!)

授業でのことです。他の発表者が難しい専門用語ばっか言ってました。

「モダリティ」「イロキューショナリーアクト」 etc...

これじゃわかりませんね。「木」だけバンバンみせられても、全体がわかりませ。そこで教授の突っ込み。

「木を見て森を見た気になっちゃダメー!!」

専門用語はあくまで「専門」です。一般人には解りません。
変な形や変な色の「木」だけみせられても、ちんぷんかんぷんです
変な「木」はあくまで変な木としておいて、
その変なものを全部ひっくるめて
全体の特徴を「ヒトコト」でまとめる作業。これが人間の読解力です。
雑多な知識をのべるだけならロボットでもできます。

 自分もレポートを書くときは色々調べます。本もたくさん読みます。しかし、読んだ内容を全てレポートに投入するわけではないです。

大量に読んで、それを総合して自分の意見を簡単にまとめる

これが、「レポート」を「書く」という作業の意味することだと思います。

英語学のレポートをかくとき、私は英語の論文なり、言語学の専門書なりを10冊くらいは読んだきがします。でも、その中でレポートを書くのに使った割合は、そのうちの3割いくかいかないかくらいだと思います。

シンプルにまとめるためには、
難しいものをたくさん理解する必要がある。

これは前回の記事「簡潔に言え!」と関わります。簡潔にいう、その根底には多大な調査と理解が含まれているということです。

はい、また暴走しましたw
深夜ももう二時になりそうなので、
また暴走しないためにも
ここで切っておきますw

では、大事なとこをもう一度述べてからお別れです。

簡単な言葉で説明できるからといって、その説明だけでわかった気になってはいけない

以上

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