京アニの一件について思うこと

 先日京アニで非常に痛ましい事件が発生し、たくさんの方が被害に遭われ、本当に心を痛めています。一刻も早い全容の解明と、被害に遭われた皆さんの復帰、そして京アニの復活を願っております。

 さて、今回は事件のどうこうというよりも、事件を受けてインターネットで盛んに主張されている問題についてあまりにもな意見だと個人的には思いまして、少し意見を書こうかと思ったのであります。

 最近こういった凄惨な事件が多い中で、今回の事件で多く主張されているのが「こういった事件を起こしそうな人間を隔離して管理せよ」という意見です。もちろん彼らが本気でそう言っていると私は信じたくはないですし、凄惨な事件の影響で動揺してそう言った意見を言っているのではないかと信じていますが、ただそう言った意見が確かに存在します。
 他にも京アニの建物の中が燃えやすいものが多く配置されていて火の回りが早かったのではないか、被害者非難が色々あります。

 これらの多くは公正世界仮説という考え方で説明できます。公正世界仮説とは、この世界は公正であるから自分の行いが返ってくる、つまり事件の被害者となった人間にも落ち度があり、問題があったのだという結論に至る考え方です。
 わかりやすい例としては痴漢です。電車内で痴漢された女性がいたとして、その女性が男性を誘惑するような格好をしているから痴漢されたのだ、という意見です。もちろんそう言った格好をしないという自己防衛はありますが、なぜ被害を受ける側が配慮しなければならないのか、逆に言えばそこに加害者がいて加害者が悪いにも関わらず、なぜか被害者のアラを探してしまうということです。

 今回の事件の全容が全くわからない中で、多くの人間がなぜか犯人は精神病質的な要素を抱えているという結論に至っていて(実際に精神疾患を抱えていたようですが)、そう言った人間は隔離されるべきだという意見が結構支持されています。これも今回の事件があまりにも凄惨であったから、そんな凄惨な事件を起こす悪い人間などいるはずがない、だから犯人には何か精神病質があってそれが原因に違いない、だから我々一般人とは決定的に違うのだ、という流れな訳です。これもそんなに邪悪な人間がいるはずがないという思い込みによるものです。そもそも彼らは精神病質と犯罪の関係性について明確に論じることは全くしていないのにそういう理屈を言っています。

 いろんな事件を見てて思うのですが、多くの人間は自分が被害者になるということについては考えますが、自分が加害者になる可能性について考えている人間はあまりいません。そしてそういった犯人を何らかのくくりにくくって、そういうクラスタに所属している人間は危険だと語るわけです。彼らは「オタク」が一括りに危険だと語られることを嫌いながら、そう言ったことをしてしまうわけです。
 そう言った危険な人間を社会から排除し、隔離していった先に平和は来るのでしょうか。僕は絶対にそうは思いません。むしろそうやって隔離しろ排除しろと言ってる人間が自分は絶対に隔離されない、排除されることなどない「健常者」であると認識していることに非常に恐怖を感じます。

 でも私がここ数年ずっと考えてることではあるのですが、おそらく多くの犯罪加害者は僕たちの人生の延長線上にあるのです。それは僕たちは運が良く、偶然そう言った決断をしなかったというだけの話だと思うのです。しかしどうしても自分とそう言った犯罪者は違うのだという結論に持っていきがちなのです。
 私には精神疾患があって、しかも自分がそんなに正しく公正な人間だという自覚も全くないので、いつか何かをやらかすのではないかという考えは常に脳裏にありますし、もし犯罪をする可能性がある人間が隔離されるとなった場合に自分が隔離される可能性は十分にあります。隔離しろと主張している人間も自分が隔離されることは嫌だと考えているようですが、しかし自分が隔離される可能性はないと考えているのです。

 そして隔離する条件の選定が重要で、それには科学的な検証を経て行われるべきだという主張もあるのですが、例えば数十年前はアジア人は近眼が多く飛行機の操縦はできないなどというトンデモ理論が普通にまかり通りましたし、今でも黒人の肌は白人に比べて強いという迷信を信じている人間は多いです。当時としては科学的に根拠があるとされた理屈が、実はガバガバ理論だったということは平気であります。そんなガバガバな理論の上で他人の自由を奪うことは正義なのでしょうか。私はそうは思いません。そして自分たちが隔離し閉じ込めた人間が実は潔白で何も問題がなかった時に、果たして誰が責任を取るんでしょうか。

 そしてそんな隔離政策を選択した場合結果として100年前に後戻りしているではないかという問題点もあります。
 犯罪というのを減らすのは社会保障政策などによるものであって、例えば今後技術が進歩して犯罪を予測し、犯人を先回りして逮捕ということができるようになったとして、何の罪に対して逮捕されたのかというのがわからない訳で、やはり犯罪を予知して予防するというのは倫理的な問題からすべきでないんじゃないかと思います。

 京アニ側の対応に落ち度があったんじゃないかという指摘も、本来は火をつけた奴が悪いはずなのに、なぜか犠牲者非難に繋げています。これは京アニが今後事件を総括する上で考えるべき課題であって、我々がそれを理由に被害者を非難するのは筋違いであると考えます。

 ここまでの文章で犯罪加害者が圧倒的に悪いというような言説を続けてしまいましたが、実際にそうです。しかし、一方で私は私刑に関しては強く反対しています。

 そして私は死刑にも反対の立場です。なぜなら犯罪加害者はこの国では「許される」必要があると考えているからです。死刑というのは、死ななければ許されないという刑罰です。自分の罪を反省していたとしても、どんなに努力して償おうとしても死ななければ許されない、そういうのは刑罰の考え方としてどうなのだろうかと思います。

 つまり、犯罪加害者はきちんと法によって裁かれた上で、その刑罰を全うした場合にはきちんと許され、少なくとも社会復帰はできるべきなのです。しかしこの国では犯罪者の社会復帰というのは難しく、結果としてまた事件を起こしたりしてしまう例が多いです。
 実際今回の事件の加害者も前科があるようで、やはり犯罪加害者をどうやって社会に復帰させるのかということはこの国の課題であろうと思います。この国、この社会の不寛容さによるものだと思います。しかしそれを論じることなく、むしろレールから外れてしまった人間をさらに社会から排除しようという方向に向かうことに違和感を感じますし、そう言った人間を社会から排除することによって余計そう言った犯罪が増える可能性について考えないのです。

 非常に長文になってしまいましたが、天賦人権というものを忘れてしまってはいけないのです。自分が人権を守ろうとした結果何らかの犯罪に巻き込まれたとしても、文明人であり、教育を受けた人間としてはここの線は譲れない、譲りたくないとは思います。

おわり。

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