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連載「私と女優と人生と」

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女優の姿を通して、「ホンモノの大人とは?真の女性の美しさとは?」をお伝えしていきます。
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#映画

自らの経験を基に思考せよ 高峰秀子の場合

 自分の考えは自分のものであるはずだ、と当然のように思って生きてきたが、どうやらそうでも無さそうだ、と感じる今日この頃。生まれた時からスマートフォンのある世代が、すでに高校も卒業しようという世の中なのだから、生まれたときには家にテレビなんてなかった私世代の脳みそでさえ、何らかの意図をもって無料で流れてくる情報に操られていたりするのである。その中にいて、“如何に自分らしく生きるか”という問いは、毎日の服を選びきるのと同じくらい日常的で大切なことなのだ、と思う。  フリーになっ

“自分の顔”はいつ完成するのだろう ロミー・シュナイダーの場合

“20歳の顔は親からの贈り物、50歳の顔は自分の価値がにじみ出るもの”という言葉がある。若い時はすでに存在する価値を知るしかなく、己から湧いてくる自信などあったとしても強がっているか、世間知らずなだけかもしれない。しかしそこから30年以上、“自分の顔”を引っ提げて生身で生きてきたならば、そろそろ周囲と比べない顔を持ちたいものだ。 女優ロミー・シュナイダー、彼女の日記で構成された本がある。「音楽、お芝居、映画、旅行、芸術 この五つの言葉を耳にするとどうしようもなく血が騒ぐ」と

そうだ、私はアンナ・カリーナになりたかったのだ

9月13日、ジャン=リュック・ゴダールが亡くなった。一番好きな映画監督かと聞かれればそうではないのだが、そのニュースを目にしたときの喪失感は、思いもよらず大きなものだった。 ゴダール監督が好きだなんて言えるはずもないのは、彼の映画を理解することなんて私には不可能だから。唯一わかることがあるとすれば、映画の中で女優アンナ・カリーナが、他に感じた事のない魅力に溢れているということ。 デンマークはコペンハーゲン生まれ、本名ハンヌ・カレン・ブレーク・ベイヤー。アンナ・カリーナとい

競わない先の成熟の在り方 キャサリン・ヘプバーンに学ぶ

ニュースには、もう良いニュースの枠は無くなってしまったのではないかと思いたくなる日々が続いているが、私にはひとつ希望に感じていることがある。かなり歳の離れた世代に感じる『競わない成長』感覚だ。私が子供の頃は、悔しさの後に成長があったものだし、下の世代で順位をつけない運動会が始まったときには大いに疑問を持ったりした。しかし今、大きな声で目標を掲げなくとも、競争心をあおらなくとも、柔和な斬新さで革新していく若者たちの存在があると思っている。競うとはどこかに線を引くという事だが

本来の感性にもどって恋を メリル・ストリープの眼

すごく久しぶりに恋におちた気分を味わっている。映画『マディソン群の橋』を観なおしたせいだ。これには不意な導入があった。ある時、ラジオから流れる邦楽に心を掴まれ、集中していたはずの作業をやめて曲目を調べ(これができる今っていい!)、その日は寝るまで繰り返し流してその歌の世界に浸った。 翌日目覚めると驚くことに、朝イチの行動が変わっている自分がいた。このところの私といえば、起床と共にニュースが気になり、それも自分の目で真実を確認できないものばかりだから、ひたすらスマートフォンで

真実って、普通は複雑なもの”ジョディ・フォスターの知性“

私は今、過去にも未来にも興味がない。正確には、「過去」と「未来」に価値が感じられなくなったのではなく、それに興味を持つ余裕がないほど、「現在」を正しく理解することに集中したい、という意味だ。習得したければ、まず懸命に打ち込んでみよう。‘信じて欲しければ、まず信じよう。という風に私は、新たな物事や人間関係を受け入れ肯定するところからスタートするやり方で生きてきたのではないか、と思ったりするのだが、57年生きてきて今、その時々の「現在」を間違って理解しながら生きてきたのではないの

深読みを必要としない世界へ ブリジット・バルドーの魅力

 ついに!選んでしまった女優、ブリジット・バルドー。同じ仏映画でも、私が好きそうな(自分でいうのも変だが)“わかりにくく魅力的な、だからこそ意味を探ろうと何度も観てしまう”タイプの映画ではなく、その対岸に堂々と位置するフレンチアイコンの代表だ。くしゃくしゃ無造作風に盛り上げられたブロンドヘア、赤いけれど少女風のリップが塗られたぷりぷりの唇からは、可愛い不満が自由に飛び出し、素晴らしくまっすぐな脚は、バレエの気品を持ちつつも、ラテンダンスが一番似合う。ミニがまだ登場していない時

“群れ”から“他を認める個”へ。ジャンヌ・モロー的自己実現とは

昨年からの緊急事態によって、我が国でもいよいよ『個性』に焦点があたってきた。今さら?という声もあるだろうが、考えてみて欲しい。ファッションの「何をどう着るのか」でも、仕事場で「どう動くのか」でも、SNS上で「どう見られたいのか」に対しても、果たして“本当の意味で解放された己の判断に基づいた選択”を、私達はしてきたであろうか。それは他のそれを見るときの自分もそうだ。かなり自由に生きてきたと思っている私でさえも、「本当に?」と問い直すと多々疑問が見えてくる。自分の中にある差別意識

どこまでも柔軟に高く ジュリエット・ビノシュのように

2020年はいつもと同じ365日だったのに(いや、オリンピックは延期になったけれど閏年だったから366日だ!)、人や物との“関係性”や“価値”を大きく変えた。今まで、考えるに値しない程普通だと思っていたことや、揺るぎないと思っていたものまでが、根底からひっくり返ることも。この騒動を「思考の停止」なんて言う言葉で表す文章をたびたび目にしたが、私は違うと思っている。2020年は柔軟に思考を重ねた日々だった、と。 「柔軟な思考」、これは私の好きな言葉で常に持っていたい軸のひとつ。

皆の上にある真の幸せの形を カティ・オウティネンの姿に見る

今置かれているこの状況はいったい、“本当は”いつから始まっていたのだろう、とふと考えてみる。コロナ騒動のことだ。初期の頃は、「予想外の惨事」が「急にやってきた」と思っていて、だからこそ「すぐに収まる、今だけの騒動」と信じ、外出しないことでコトが収まるのならば、「お家でのんびりを楽しもう」とさえ、私は思っていた。それがどうだ。全くそんな「今だけ」のことではなく、相当な年月を費やして、それでももう元には戻らず、もしかしたらもうずっと前から、人類行動脳の大変革を『地球』や『宇宙』、

こんな時だからこそ今、強い視線のヴィヴィアン・リー

今世界中が、見えないものと戦っている。何もかもが想定外で、未知という名の恐怖の連続。こんな時に誰を書こうか、書くべきか。誰もが癒される女神みたいな女優とはいったい・・・と思案していた。 否が応でも新型ウィルスの情報は日々更新されるが、それがどこまで正しいのかさえ、わからない。全ての価値が揺らいでいる。 そんなある朝ふと、私が今までで一番数多く観てきたであろう、ある映画のヒロインを思い出した。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラだ。初めて観たのは小5の時、テレビ「水曜ロ

二律背反という名の美学 シャーロット・ランプリング

昨年のラグビー人気は記憶に新しいが、一説によると「ラグビーは紳士が行う野蛮なスポーツ、サッカーは大衆が行う紳士的なスポーツ」なのだそう。確かにワールドカップ期間中、交通機関移動にスマホ以外の荷物を持たず“完璧な自由”という空気を纏った優雅な大男が沢山来日していて驚き、その身軽さに憧れた。本質とは真逆のところに目くらましを装い、それを“粋”と感じさせるのは本来、ファッションの得意分野のひとつである。 ファッション用語に、“マニッシュ”という言葉がある。“男装的な”という意

さいごに一流であればいい。宮沢りえの透明感は本物か?

 信じていたものが覆される出来事が何と多くなったことか、と感じる昨今。2011年3月11日、「生きるための常識が変わる」と察して今までの自分を疑う事に目覚めた私は、今からの「在るべき姿」を探ることと、服の仕事を結びつけたいと、生活を一変。それから9年近く経ち、予想通りの時代変化の中、最も我に願うことは「心と思考を柔軟に」。何より頑固な精神を作ってはいけない。  すでに語り尽くされている憧れの女優も、改めて自分の言葉で書きたいと始めて16回目。およそ手が届かない仏の大女優カト

変わらぬ体型のまま魅力を進化 女優イザベル・ユペールの場合

“動的平衡”私は今この言葉に夢中である。簡単に言うと「ミクロでは変化しているけれど、マクロでは変化していない」ということらしい。ひと月前の身体と今日では細胞レベルでは別のものなのだそう。生命を維持するのに必要な方法だと。福岡伸一先生の講義で知った言葉である。 「ミクロでは変化しているのに、マクロでは変化していない」のは、「変化」か「無変化」か。「上手い変化」とみるのか、「長く続く安定」とするのか。いったい、何の話だ。そう、今回の女優 イザベル・ユペールの話。 女優として素