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マゾバイブルⅡ 概要その1


私には時間軸がないんですね。

マゾバイブルは何年やってる?

25年ですよ。つまり,四半世紀。

一言でいって『倒錯の思想』ですよ。

世の中や人生の不可抗力、理不尽なまでの不条理、不合理性、そうしたものを武器にしてやってきた。

別にね、最初から何があるわけではないが、何もないからこそ、

ただ一つ『きっちり生きてきたものにしかみえないものがある』んです。そして『その都度 答えをだしながら』やってきた。ただこれだけなんです。こんなものなんです。

バカの一つ覚えというかですね。時間軸がないものだから、一つの事をずっといい続けてやり続けていくと否が応でも、不可抗力にぶつかりますよね。普通は経験とかの所作で、やり方を変えるとか、人に教えを乞うとかしますよね。まあ、壁にぶち当たったんで軌道修正とかです。ところが、私は違うんです。 逆にチャンスと受け止めるんです。ここで安易な軌道修正は御法度。これが時間軸がない論理的展開の意味するところです。

間違っている事はやっていない、基本論理ですからね、論理は間違っていないんです。間違っていたならとっくに軌道修正しているはず、そんな事で自己否定できないほど野暮じゃないですから。

私は人がやるからとか、なんとなくの空気じゃない、日本人じゃあるまいし。ここで安易に自己否定修正するようなら今までの費やした時間はなんだ、という話で、目的とか結果とかそういう問題ではないですよね。

日本人には理由無き釈明ともいえない釈明が多過ぎますよね。こっちは人がやるからとかそういうわけにはいかない。こうなると、自分か世の中か?という価値判断ですが、基本的には自分の方が正しいと思っていますから。なぜそう思うのか


という原点源流を遡るとですね。それは本当に幼少のまだ物心つくかつかないかぐらいにまで遡りますが、

あるとき 図鑑で戦闘機の写真を見つけて母親に問いただすんです・・・

何かの間違いではないのか?なぜこんなものが、空を飛んでいるのか?こんなものが必要とされる戦争というのは現代でもたとえこれからでも起こりうるというのか、その事実は子供心にも胸を痛めた、それが私の人生において決定的な、または戦争を容認する我々の資本主義競争社会の本質を把握洞察した瞬間であって、その決定論に関しては、ブレるどころの騒ぎではないですね。微動だにしないという事ですよ。そしてその時、胸に誓ったのは、たとえ、999人がたとえイエス、もしくはノーでもたった一人でもノーまたはイエスのいえる人間、大人になろうと今に至っています。ただ漠然としていますが、これだけなんですよ。これだけ。人生の目標。別にモテたいとかお金持ちになりたいとか、いい大学どういう職業でいい会社に就職したい とか、そんなんじゃないんです。たとえ、世の中がそんなんでも、そんなことはどうでもいいことなんです。人はどうでもいいことなんです。私は実はこんな

世の中なんかに出たくなかった。人を蹴落としてまでね。

私は出来るなら、このまま静かに誰も気づかぬうちにそっと静かにみんなの前から消え去りたいと思っていた子供ですよ。どうせ、ろくな世の中じゃないし、案の定ろくな事はないし、ろくな世の中ではない。

私の後悔とそして憂いはなぜ、あの戦争を止められなかったのか、そしてその可能性が潜在すれのかなどの一点に尽きる。そしてそのためには、それは主義思想の問題ではない。それはしかるべき時にしかるべき洞察、決然とした意志、判断のできる勇気、意志、決断力だと思っている。そうした事、考えというのは昔から首尾一貫としている不思議な事にね、そうした洞察というのはブレるどころか微動だにしない、そうした気構えがないのなら、考えるな、言うな、行動するなという事です。最初から。やはり、そこらへんが原点源流として今に至っている節はあります。

逆境こそがチャンスといいますが、正当な論理が突き当たる、不可抗力こそが、理不尽とされる不条理不合理最前線であります。核心部分を鷲掴みにしてさらけ出す事、ていのいい言葉でオブラードに包み何かに差し替えない。それを倒錯の世界のオブジェとして、マゾワードとして、露出する事、むしろ、力の根源として、ネガティブをポジティブにする事、それを我々の革命とする事などです。


人文科学は長く人間のそうした部分と向き合い人間を人間たらしめる偏執的なまでの何かという事で光をあててきたと思いますし、ある意味、私とてまるで何かに取り憑かれたか熱病にうなされるかのような、まあそれはいってみれば、ほろ苦くも甘酸っぱい香りとともに立ち上がる青春そのものというような、求めても決して尽きる事の無い飽くなき思い、もしかしてこのまま死んでしまうのでないかと死に場所を求めて現場に勤しんだ危うい影、満ち満ちた瞬間、収まらぬ動悸。ほとばしる出る呆れるくらいのバイタリティにまるで眩い太陽が自分の中に宿ったかのような、そのまま生きてみようと、終生違わぬ感動と、そしてひたすら若くひたすら恐れを知らぬでも忘れるにはあまりにも悲しく美しく過ぎた追憶の日々、その真実はあまりにも眩し過ぎてふつふつといまだにこの胸を責める事ですよ。またその時以来もまた、逆説的なまでの困難を伴う事を身をもって体得して熟知してきたと思います。


やはり、偏執的な主観的な世界を前にしては、客観的傍観者でいるよりは身をもって体得する

もうすでに、客観的メソッドが追いつかなくなった世界であることの扉を開けたのは他でもなく、心理学者ユングであると思います。それは主観的な心理、それは心というのは本来、主観的であるはずで、それはもはや科学の及ばない分野である事はある意味必然なのです。

そのユングの開けた扉を前にして、非科学的であるならば未踏の地をゆくべきではないというのはナンセンスなのです。そして、私は身をもって体得してしまい、そしてそれは『この道を行けばわかるさ』ぐらいの手合いのものだと思います。しかし、私はそうした、モラルなど常識という範疇外のそうした何ものにも囚われない、純真無垢な世界を、繊細過ぎるがゆえに美しい世界と記憶していますが、まあまるで月面から帰還した宇宙飛行士よろしく、地上はいまだに建て前など本音などきれいごとと欲望の愚かしい堂々巡りを続けているわけでありまして。それはもはや体制擁護のための戯言、それは行き着くところまでいった者の目から見たら形骸化著しい、終わった世界という事です。それはもはや我々の常識や科学などメソッドとして限界のところまできているのはわかりきった事なのですが、今や徘徊する妖怪のように権威としてはびこっているわけですからね。行き着くところまでいった、そして、『きっちり生きてきたものにしか見えない』そうした目線で何が見えるのか、それを明らかにしたいと思います。なお、私自身としては、いまだ、何ものにもとらわれず、とらわれたくない次第でありますが。

そして、『在野の哲学者』の手法というのは必ずしも客観的科学ばかりではありません。科学は疑うという事からスタートしますが、それは疑うというより信じるという事です。もしそう考えた方が合理的妥当だと考えられるならば、そう機能していると想定する事です。

仮定でも何でもいいから突破する事です。入り口のところで躊躇して、学者ののようにその事を検証立証実証 する事に一生を終えるわけにはいきません。人生は短いのです。入り口のところは仮定としてでも、とりあえず先に突破してあとから立証できる事もあるはずです

そしてまたやはり『在野の哲学者』の手法は決して科学に限らず、モデルとしてはこのような感じです。

『それはどんなディテール、物事でも深く掘り下げればそこから覗き込む世界は広大な宇宙が広がっている。

そうしたディテールをワンピースとして[ジグソーパズルのように]世界を構築する、という事です。より様々な角度からダイレクトに深遠で多彩な世界が相関的相対的に結びつく、この世界はよりディープに多様な世界という事になります。


ひとまず、ここまでを送ります。



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