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6/14 大学に行って良かったこと

※私は東大卒ではありません。

そういえば、ドラゴン桜ってしっかり読んだことありません・・・

東大に行きたいと思ったことは無いんだけど(行ける学力も無いし、京大に行きたかった)、しかし大人になって思うのは行きたいと思って気軽にいける存在ではないのだから、行けるのであれば行った方が良いということ。

それは学歴が~とか就職が~とかではなくて、環境から得られるものであったり、友人ネットワークであり、その長い歴史の一部となって、過去・現在・未来とその遺産の恩恵に預かることができるから。

私が通っていた大学も、その点では良かったと思うし特に後悔はしていない。実際、あの大学生活があってその関係値のなかで仕事ができていることだってあるから。

しかし、私の周りだけだったのかもしれないけれど、視線が基本的に学外に向いている人が多いので、「学問が好きでしっかりやっています」という人にはほとんどお目に掛からなかった。その点で、(あくまでイメージですが)東大は研究機関として優れているので、しっかりと学問をしている人が多い印象だった。

大学はもはや、有利な条件で社会へ進むためのパスポートを得る場所ではありません。大学に関わるすべての人が、ともに新たな価値創造をしていく場へと転換しつつあるのです。(本文より)

なぜ大学に行くのか?

大学全入の時代と言われ、大学卒でなくても起業して一発当てられる社会において、そういった疑問を抱く人は多いだろう。私としては、大学に行く意味はあると思う。個人の人生を最適化する分には、良い大学に行って給料の高い会社に就職、あるいは起業するというのは今でも最適解であるように思うし、我々はまだその意味で大学を未だに必要としている。

21世紀の「知識集約型社会」はそうではありません。人が求める価値は健康長寿、格差解消など、さまざまな課題解決です。モノではなくサービスが価値の中心となっていきます。(本文より)

しかし、社会は大学を必要としているのか?

むかし、慶應に総合政策学部ができた時、「多様で複雑な社会に対してテクノロジー、サイエンス、デザイン、ポリシーを連関させながら問題解決をはかる」という言葉に何か新しい未来を感じたような気がしたけど、課題解決はそう簡単には進まなかった。

環境問題、格差問題など様々な要素が複合的に絡まった複雑系問題を未だに解決できていないことを思うと、社会にとって大学という教育機関が絶対に必要と言えない気がするのも微妙な気持ちである。

個人最適だから良しと口では言いつつも、大学を安定的な所得を得るためだけのツールにしてしまっていいのかどうか「自分のこと棚に上げてさ」と言われてしまうかもしれないけど、問いかけていかないといけないのかもしれない。

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