7/15 思考の共有こそトークイベントの価値

▼目次
 ・トークイベントの価値とは
 ・トークの価値とはライブ感にある
 ・思考の共有こそトークイベントの醍醐味

来年に控えた東京オリンピックの開会式A席のチケット料金は30万。著名アーティストのライブチケットは1万ほど。

それに比べてほんの著者が書店で開催するイベントは大抵が該当の本を買えば無料になるか、購入者以外も参加できる形式で2,000円ほどか。

ユリイカ「総特集 書店の未来 本を愛するすべての人に」の書店員さん同士の対談で下記のような言及があった。

コンサートのチケットは5,000円以上するものが少なくないですが、書店のイベントは本を買ったらタダ、という感覚が当たり前になっています。でも、それでは登壇者に謝礼を渡すことはできません。

トークイベントの価値ってどんなものなのだろうか?

私は本も雑誌も好きだし、面白いイベントがあればたとえ有料でも予定さえ合えば参加する。その場で得られる経験というのは基本その場でしか聴けない内容であるのでとてもクローズドな内容であるから、というのが参加する理由だったが改めて考えてみた。

トークの価値はライブ感にある

面白いトーク番組とそうでないトーク番組を分かつもの、それはライブ感の有無である。トーク番組とはライブなのだ。

これは「平成テレビジョンスタディーズ」(太田省一著 P.97)にある一節からの引用だ。そして次の内容も同様。

それまではスムーズに続いていた会話のなかでゲストがふと言い淀んだり、表情が変わったりする。するとすかさず司会者が合いの手を入れて次の言葉を促したり、鋭い質問を畳みかけたりする。そしてそこからゲストの意外な告白が聞けたりする。そのとき私たち視聴者は、一見地味ではあるが、そこにテレビならではの意外性、スリリングさを味わい満足するのである。

テレビのトーク番組に台本があるように、トークイベントにも台本がある。

例えば以前参加した雑誌WIREDのイベントは編集長の松島氏とAR三兄弟の川田十夢氏の対談であったが、台本などあって無いようなものだったろう。流れのままにトークが進行していくことで、雑誌本誌に書かれていない本誌周辺の話題に自然と行きつく。雑誌は何度も何度も推敲され完成した文章として発刊される訳だが、イベントにおいては(他者の思考を介さないという意味で)推敲されずにアウトプットされるから、その瞬間にしか聴くことができない話が飛び出す。そして、観客からの質問という形でライブとしてのトークは最高潮を迎える。何故なら、観客がどんな質問をするかなんて、会場にサクラでも仕込んでおかない限り分からないからだ。突拍子も無い質問に対する切り返しとして、またライブ感のある回答が発される。

登壇者との思考の共有こそトークイベントのライブ感

いわゆるライブが音楽好きのためのイベントであるならば、本好き/雑誌好きのためのイベントこそがトークライブである。ライブ会場でアーティストと観客が音で一体感を共有するのと一緒で、トークイベント会場では登壇者と観客が言葉で思考を共有できる。

本や雑誌を多くの人は自宅やカフェなどで一人静かに集中して読むだろう。たとえ一人で読んでいたとしても作者と対話をしていることになるのだけれど、実際に作者(編集者)が目の前にいれば彼ら彼女らの思考をリアルタイムで追体験できるし、それこそがトークイベントに行く価値であると思う。

せっかく行くのであれば、そこで聴き得た内容を自らの血肉とするべくメモなど取って、さらには再編集してブログやnoteのような形でアウトプットしてほしい。それこそが、更なる対話を生み出すキッカケとなり、今後そこかしこで開催されるトークイベントの価値をさらに高いものとしてくれるはずと思う。

何より色々なトークイベントに参加した方々がどう思ったのか、私が知りたいのである。



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