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コミュニティに私たちはこれからも夢を見るか

立命館大学を退学したわたしですが、立命館時代は防災とコミュニティの関係に興味関心がありました。

コミュニティ防災という言葉がある中で、時代はコミュニティの強化とは逆向しています。都市部に行けば行くほど、その住民間のつながりは弱くなります(説明は後述)。一方で田舎はコミュニティが強いかというと、村八分の雰囲気ははっきり言ってロクなものではないし、高齢化で限界を迎えていると言わざるを得ないと思います。そんな中で、地域コミュニティやソーシャルキャピタルといった人とのつながりが、政策やディスカッションにおけるトレンドのような空気も感じます。

じゃあどうするべきか。公助が限界を迎えるなか、行政の公助に民間企業の力を最大限取り入れていくのか。それとも共助を最大化するために時代に逆向してムラ社会的なコミュニティを取り戻すのか。京都大学の某大学教員の方に質問しましたが、彼にもまだ分からないと言われました。これが、私が未来のコミュニティのあり方について考えるようになったきっかけです。

ところで、みなさんは石山アンジュをご存知でしょうか。

彼女は内閣官房シェアリングエコノミー伝道師であると共に、「Cift」という血縁関係のない60人と家族のように暮らすコミュニティを立ち上げました。東京と神奈川に3つの拠点を持っています。

Ciftの紹介文を引用してみましょう。

Ciftは、拡張家族である。
資本主義の限界。個人主義の疲弊。
新しい時代を迎えようとするいまーー
私たちの心は、
何を求めているのか。
私たちの生きかたは、
どう進化していくのか。
ともに暮らし働き、相互扶助する。
私たちは一人ひとりが、
良心を軸に創造的な人生を開拓する。
拡張家族とは、その経験価値を
社会と共有する共同生活組織である。
http://cift.co/about

この文章を読んで、あなたはどんな感情を覚えますか?初めてCiftの存在を知ったとき、わたしは都市防災の観点から肯定的な感情を持ちました。理由は2つです。

1.都市防災の課題と言われるコミュニティの弱体化を、クリエイティブクラスの纏まりの悪さの纏め上げにより解決しようとしている

クリエイティブ資本論を提唱した経済学者のRichard Floridaは、クリエイティブクラスについて著書の新クリエイティブ資本論で「寛容であるが、まとまることが苦手」と表現しています。単なるシェアハウスではルームメイトはあくまでソトモノ扱いです。助け合いにはギブアンドテイクが必ず伴います。これが煩わしいと感じたり、人間関係の悪化に繋がることは容易に考えられます。

これに対し、形式的にでも「家族」になることで、ギブアンドテイクは曖昧な存在になります。気づいた人が家事をやればいい、怠け者がいたっていい。家族なんだからなんでも受け止める。寛容な姿勢ですね。これなら、人間関係も悪化し難いのではないでしょうか。クリエイティブクラスの長所であるこの「寛容さ」を、家族という形態で見事に活かした社会契約だと感じました。

2.新しい家族のあり方を提示したことそのものが、都市防災への功績である

かなり捻くれた考えですが…
実は土砂災害と家族の形態には関係があります。

戦後、日本は人口増加と共に核家族化が進行し、世帯数が増加。また、モータリゼーションの影響で郊外化が進みました。

やがて、宅地造成による都市の拡大は土砂災害の危険な場所までに及びます。ここで、都市部の土砂災害に遭った家の家族構成を調査すると、興味深いことに、分家が有意に多いことが認められます。戦後、大家族が本家と分家に分かれて核家族化していきましたが、大家族の本拠地と言える本家は、比較的災害のリスクが低い土地に家が構えられている場合が多いです。しかし分家の場合、そういった安全な土地に家を建てることが経済的理由により叶わず、結果として崖の下や液状化しやすいといったリスクの大きな場所に家を建てざるをえないのです。

このように、核家族化の進行による分家の増加が、都市の災害を助長させてきたと言えます。これは果たして天災と言えるのでしょうか。崖の下に家がなければ、崖崩れは単なる自然の摂理なのです。

そしてこの文脈のなかで考えると、血縁関係のない新たな「大」家族の概念を打ち出したCiftのような空間が広まれば、やがて災害リスクの低い中心市街地に分家の住民が集まって家族として生活することも可能かもしれません。Cift的な社会契約は、災害に強いコンパクトシティの実現にも一役買ってくれるのです。家族のあり方を変えることは都市を編集することでもあると自分自身気づかされました。

以上の2点において、わたしは石山アンジュのCiftに初見では好感を抱いていました。

しかし、先日に講演でお呼びした評論家の宇野常寛は、自身の番組での石山アンジュとの対談で批判的な意見をぶつけます。
(https://youtu.be/Oy0um19Cjzk)

・都会のクリエイティブクラス以外が前提から外れてしまっている点で理想論に過ぎない
・資本主義はコミュニティを弱体化させたが、そもそも資本主義社会が素晴らしいのは、コミュニティに溶け込めなかった人でも生活ができるようになった点
・いまの日本人はコミュニティが弱いと言われるが、それどころか十分以上に繋がっていると僕は思う…etc

わたしはCiftを新たな家族の形態と表現しましたが、宇野さんはこれがクリエイティブクラスにのみ閉ざされたもので、思想の域を出ないといいます。

例えばCiftの構成メンバーを見てみると、ミュージシャン、作家、料理人、お坊さん、LGBT活動家、弁護士など、多様性があるように見えて実はクリエイティブクラスばかりです。ここに町工場で汗水流して働くおじさんが入ってきたら、なんだか違和感がすごい。

Ciftは場所に縛られない職を持つ人に向いています。クリエイティブクラスは居住地の流動性が高いのが特徴ですからCiftは適していそうです。しかし居住立地限定階層にとっては、持ち家を捨てて仲良くなれるかも分からないコミュニティに飛び入るのはリスクが大きく、あまり現実的な生活スタイルとは言えなさそうです。構成メンバーがクリエイティブクラスというのは、現時点では絶対条件なわけです。

宇野さんの意見もたしかに頷けます。「渋谷の高級マンションの高層階に東急が集めたクリエイター達のコミュニティを作ってさ、それで拡張家族うんちゃらって言っても俺は意味がないと思うんだよね。そこに西成の、日雇い労働者のおじさんが混じっているのだったらまだ理解するよ。それもかなりのパーセンテージでね。僕は家族のように仲良くしているご近所さんが、おばあちゃんをショッピングモールまで送ってくれる社会が素晴らしいとは思わないんだよね。それって結局、ご近所さんと仲良くしていないと生きていけない世界じゃん。それよりも、アプリでUBERを呼んだら、どれだけ村八分にされようと一切村八分とかされずに安くショッピングモールに行ける世の中の方が決まってるじゃない。都会のクリエイティブクラスが50人集まってさ、金持ち喧嘩せずのコミュニティで助け合ってますなんて言っても、そんなの何の社会的批判力もないよ。家族の暴力性をあまり考えられてないんだよね。殺人は家族間で1番よく起きてるんだよ。みんながバラバラの世界の方が、圧倒的に自由で安全なんだよね。ただのごっこ遊びだ」
(引用: https://youtu.be/GxXs4NL7yzE)

宇野さんの観点はわたしのそれとはかなり違うのですが(そもそもわたしの視点が変)、かなり納得させられます。コミュニティの排外性も考えると、人は誰しも違うのでコミュニティに入れない人々というのも出てきてしまいます。宇野さんは西成の日雇い労働者を例に出しましたが、他にもなんらかの障がいを抱えていたり、単純に性格や思想が合わなかったりする人もいます。途中で不仲になったりすることもあるでしょう。赤の他人ではなく、家族なら許しあえると石山アンジュは表現しましたが、宇野さんの「殺人は家族間が1番多い」という言葉には説得力を感じます。彼らをバックアップし切れなくなった時の想像力が、Ciftにはいささか欠けていると感じました。家族構成をクリエイティブクラスに限定した時点で、それは「社会実験とは程遠いただのごっこ遊び」なのです。よって、現段階ではCift型のコミュニティは日本の家族形態のロールモデルには残念ながらなり得ないことがわかりました。ただし、クリエイティブクラスに限定した場合は議論の余地はありそうではあります。

ここまで宇野さんの話を聞くと、クリエイティブクラスの台頭に伴い、昭和的な村八分の社会は崩壊するどころかもう戻れないところまで来てしまっているのが分かります。何故ならその方が圧倒的に生活しやすいからです。煩わしい集会や飲み会に参加したり、なんらかの役職を任せられることはできる限り少ない方が嬉しい。それでは都市での生活で困った時に助け合いのコミュニティが無いのではと指摘が入りそうですが、それらはお金を出せば赤の他人が助けてくれるシェアリングエコノミーで解決に向かっていくはずです。ご近所さんと仲良くしなくても生きていける社会が、クリエイティブクラスの拡大と共に都市から寛容性のある地方へと広がっていくか、もしくはクリエイティブクラスが集積しないと言われる寛容性のない自治体が終わりを迎えるかのいずれかが考えられます。

ご近所付き合いを否定しているわけではなく、お互いに縛られずにウィークタイで繋がり、助けが必要なときはシェアリングエコノミーを活用…これをクリエイティブクラスの社会とでも呼んでおきましょう。

まだまだ村八分のような社会は残っていますが、世代は移り変わり、人口減少社会でそのような集落は確実に終わりを迎えます。この撤退戦はもちろん重要ですし、時代は確実にクリエイティブクラスの社会に向かっています。日本経済を主導する彼らの足を引っ張らず、生き生きと仕事ができるまちづくりを進めるためにも、ムラ社会に逆向させるようなコミュニティを追い求めるのは得策ではないのではないか。

雑な文章でしたがご意見・ご指摘ありましたらお待ちしてます。

#石山アンジュ #宇野常寛 #地域コミュニティ #コミュニティ #防災 #減災 #まちづくり #家族 #シェアリングエコノミー #クリエイティブクラス


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