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「歌う」ことと、写真を撮ることについて

最近思っていることを書きます。
不特定多数に人に読んでほしくはないので、インスタのストーリーであんまり拡散されないようにしました。

昨日は高崎経済大学のglee clubさんの撮影でした。
撮影とは言えどもリハーサルのようなもので、本番の失敗しづらさより気は楽でした。

うかてぃもあやちゃんも可愛かったし、やまゆーさんも貴島くんもすごくかっこよかった。私も高校時代は聖歌隊だったので(部活を5つやっていた)、撮影なんかしてないで混ざりたいのが正直なところだった。おにぎりもくれたしお見送りまでしてもらった。100人をまとめているのは本当にすごいと感心してしまう。

ところで、人はなぜ歌うのかということ、そしてコーラスクラブは何故まとまりがあるのか?について最近は考えています。歌うことができなくても、あの空間で写真を撮ることすら私は幸せを覚えます。

そのために必要なワードが「鉄の檻」と「共同身体性」です。
(知り合いがいないと思い地域環境論の授業でこれについて180人の前で話したところ、うかてぃとあやさんがいたことを知らされた私は茫然自失とした・・・)

「鉄の檻」とは、社会学者マックス・ウェーバーの唱えた概念です。
近代国家の成立によって、言葉・資本主義による損得・法、これらが社会を支配しました。
私たちはこの3つから逃れられない「奴隷」になりながら、この社会を生きていくしかない。「法にギリギリ触れないところで、自分がいかに得をするかというゲーム」を私たちは生きざるを得ない。

それによって失われるのが「共同身体性」だと私は考えます。
これはつまり「他人を喜ばせようとするコミュニケーションのあり方」です。
鉄の檻が私たちを包み込む近代国家以前において、「他人を喜ばせて共感する⇨幸せを得る」というのは私たちのコミュニケーションの普遍的なあり方でした。法がない中で私たちの行動を規制していたひとつは「これをされたら嫌だから私もやらない」という、これも共同身体性と言えるものでした。

やがて近代国家が成立し、鉄の檻の奴隷・すなわち「法にギリギリ触れずに、いかに他人を出し抜いて得をするか」という社会は、他人との喜びや共感性を見えづらくしました。

偉そうに語っていますが、私はそんな鉄の檻の奴隷の最たるものでした。

私の幼少期時代。親の転勤でなかなか同世代と馴染めなかった私は、他人を喜ばせるコミュニケーションではなく、「何かの分野で特化して、みんなに認められる存在になってやる」と思っていました。

小2で気象予報士の勉強。小5で将棋の県代表。中学校では勉強も短長距離走も全部1番。高校では化学の査読研究論文を書いたのに、文転もせずに立命館の文系学部へ。立命館進学後も、何かの分野で特化して認められたい傾向は更にエスカレートしていった。

しかし、何かが足りないことに私はずっと気づいていました。
15歳でオーストラリアのホームステイから日本に帰った時、私はオーストラリアに戻りたくて涙を流しました。逆ホームシックとでも言えばいいのでしょうか。

オーストラリアのホストファミリー(牧師家庭)は、私に共同身体性、愛情を初めて教えてくれた人たちでした。他人を出し抜くことしか頭になかった当時の私にとって、それが何なのかを理解することはできず。言語化できないもどかしい日々が立命館時代まで続きました。

ただ、その時と何だか同じ感覚にしてくれる時間がありました。そのうちの一つが、「歌う」もしくはバンドを組むときでした。

歌うことや演奏することは、言葉や資本主義や法を超え、他人とメロディーライン・リズムで同じ波長になれる(コンヴィヴィアリティな)道具です。
私は何故か、常に音楽を求めていました。中学時代と立命館でバンドを組んで、高校時代に聖歌隊に入っていました。立命館時代はアコースティックギターサークルに所属もしていました。私はこれに救われていたのだと、今になって言語化することができます。

しかし色々あり立命館を退学し、高崎経済大学に入学すると、その救済の場は失われました。コロナでglee clubに入るタイミングを無くし(2年生からでも入れるので勘違い)、ひょんなことから今お世話になっているバイト先の店長にミラーレスカメラを買ってもらったことで、私は完全に写真部の人間のようになりました。

私の中で失われた共同身体性は、今でも私の悩みです。どうにか共同身体性を取り戻したいと思いますが、人間が変わるのに5〜10年はかかります。そんな生きづらさはZ世代の割と多くの人が感じているはずで、歌うことはこの生きづらさから逃れられる、休息地のようなものなのでしょう。

長々と書きましたが、glee clubのような大所帯のサークルにまとまりがあるのは、共同身体性が働きやすい環境だからなのではないか、というのが私の仮説です。強いリーダー(鉄の檻の意味合いの中で)がいれば確かに集団はまとまるように見えますが、それは一過性の人材論に過ぎません。「歌う」というコンヴィヴィアリティな道具によって共同身体性が思いだされることで、他人との喜びを分かち合い、共感性も自然と高くなれる。そんな集団は何代にも渡って、たくさんの人間がまとまっていくのではないでしょうか。

私はコンヴィヴィアリティな道具のあり方について4年ほど前から惚れ込んでいます。写真を撮るときにもそれを表現したい!と思いながら撮っています。
コンヴィヴィアリティの意味合いである「人同士の関係性を豊かにする道具」に忠実な表現をしたい。カメラをコンヴィヴィアリティな道具たらしめるために、私は人を撮らせていただくことに拘っています。

共同身体性を感じるglee clubをシャッターで切り取ることで、私も共同身体性を取り戻そうとしているんだろうと思います。長々とお読みいただきありがとうございます。
p.s.カラオケでワイワイ歌いたい。連れていってほしい・・・!!

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