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【私の90年代 vol.7】 米持修司さん(縫製クリエイター)

1990年(17歳):進路に悩む。実家が調剤薬局だったため、薬剤師になる道を進むことは必然だと思っていた。ただ、小学生のころから大好きだったプロレスの世界に憧れていたので、時代が時代で、情報もあったら特殊メイクの世界に行っていたかもしれない。
1991年:浪人生活。水道橋の予備校に通う。彼女ができる。北の丸公園で朝から夕方まで8時間ほどイチャイチャしていたら警察に事情聴取されたことも。
1992年:浪人生活2年目。彼女は家庭の都合で長崎へ。遠距離恋愛に。予備校は夏期講習などにとどめ、普段は朝から図書館に通っていた。といっても、席に荷物を置き、友達とビリヤードやボーリング三昧。お金がなくなったら図書館の隣にあったパチンコ屋で稼いだ。
1993年:大学の薬学部に合格。埼玉のキャンパスまで片道3時間かけて通学する。軽音楽サークルの新歓コンパに行くも、「なんか違うな」と思い、それからは帰宅部に。“燃え尽き症候群”になっていたこともある。
1994年:留年。自動車教習所に通う。免許を取った後、教習所の受付の女性に告白し、しばらくして付き合うことに。毎晩のように近所の公衆電話から長電話をしていた。
1995年:春休み、朝起きてテレビを付けると「地下鉄サリン事件」のニュースで溢れかえっていた。そのうちに見覚えのある建物の映像を目にする。亀戸にあったオウム真理教の道場だった。すぐに友達と現場へ直行した。
1996年:2月22日に祖父が亡くなる。実は1年ほど前から、夜中に時計を見るたびに「2時22分」ということが頻発していた。
1997年:大学4年生。夏前に彼女と別れる。ショックから1日にタバコ2箱、烏龍茶2リットル、精神安定剤を飲む生活が続き、半年で体重が10キロ落ちた。
1998年:国家試験に合格し、晴れて薬剤師に。実家の薬局に入って仕事をする。そのころ、友達の紹介で現在の妻と出会う。
1999年:大学時代に実習でお世話になった墨東病院の求人募集を見て、非常勤で働く。11月に結婚。

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この時代の学校生活の記憶は、ほとんどありませんね。僕にとって楽しかったのは中学までで、高校や大学は失われた期間と言えます。周りがハマっていたバス釣りやら、バイクやらには興味が湧かず。

だから大学生のころは、デートしているか、高校のときから唯一ハマっていたギターを抱えて、長渕剛の歌などを弾き語りしていました。

または、「プレイステーション」や「セガサターン」のゲームに熱中していた時期もありました。(年表の1996年のところで)祖父が亡くなる前兆として「2時22分」の表示を頻繁に目にしたとお話ししましたが、まさにそれは明け方までゲームをするような生活の中で起きた出来事でした。

学校生活は不完全燃焼だったかもしれませんが、決して人生がつまらなかったわけではありませんよ。恋愛は充実していましたから(笑)。

まだ携帯電話もインターネットもなく、気軽にコミュニケーションを取るのが難しい時代でした。長崎という遠方で暮らす彼女に電話したくても、長距離料金がかかってしまうため、電話の代わりに何度も手紙を書いて文通しました。

その次に付き合った彼女には、近所の公衆電話からよく電話をかけていました。当時は同じような境遇の若者が多くて、毎回のように電話ボックスで鉢合わせになりました(笑)。そのたびに「あー、あいつに先をこされた! ほかの場所に行かなくては……」と思ったり、長電話している先客に対して、ボックスの外からイライラしている素振りを見せたりと、公衆電話を確保することにしのぎを削った日々でしたね。懐かしい思い出です。

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私にとって90年代は「真夏の海のキラキラした色」

受験勉強などに燃え尽きて無気力になっていたこともありましたが、振り返ってみると、何かの責任を背負ったり、重たいことを考えたりせず、自分がやりたいことを楽しめていた10年でした。プライベートも充実して、太陽が海に反射するような輝きがあったかもしれません。

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【取材後記】進路に悩みながらも、最終的には薬剤師の道を選んだ。米持修司さんの90年代はここで終わっています。しかし、その後のストーリーがありました。記事タイトルにある「縫製クリエイター」の肩書きに気付いた方もいるかもしれません。現在、米持さんはプロレスのマスクなどを制作する職人として活躍しています。一体、この20年で何があったのでしょうか。興味のある方はぜひ、工房に問い合わせてみてはいかがでしょう?(伏見学)

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