ジョジョリオン完結と私の間違い

 お久しぶりです。片山順一です。
 今回は荒いノートになってしまいます。
 それほどに、ショッキングでした。

 ジョジョリオンが27巻で完結し、私は自分のこの考察と向き合わなければなりません。
 この感想文は、ジョジョリオンの最終巻までのネタバレを含みます。

呪いの答え

 呪いとは何か。それは、家族や血のつながりそのものではなかったのです。
 今回で言えば、ジョースター家が代々引き継いできた負の側面、最初にジョニィが聖人の遺体をつかってしまったことにより、発生してしまった病気のことだったのです。

 そしてそれを解くとは、いわば最低の悪である透流にロカカカによってそれを押し付け、死なせて消滅させることでした。

 ただ、この結末は、うまいことやったね、というわけではありません。結局のところ、最低の悪とはいえ、他者に呪いをおっかぶせて逃れることに近かったのですから。

 『いつだって、どこにだって敵は居るけどジョースター家はきっと勝つよ』、という東方つるぎのセリフほどには、勝利したわけではないでしょう。

 だけれど、立派に呪いは解けたのです。

私の考察は間違っていたのか

 以前のノートで、私はジョースター家の黄金の精神が呪いだという解釈を書きました。しかし、認めます。ジョジョリオンの結末となる最後の27巻を読んだ今、それは違うと。

 むしろ、誰かのために、世界の理不尽に抗うということの素晴らしさ、黄金の精神の素晴らしさは、ジョジョリオンにおいては、とても強く描かれているように思うのです。

 荒木飛呂彦は、最終巻で呪いとは世界の理不尽のようなものと定義しているように思います。物語では、病が治ったのは東方つるぎだけで、仗助の『母親』であるホリィを治すことはできませんでした。それどころか、ワンダー・オブ・Uという厄災と戦ってしまった東方家は、それによって多大な被害を受けました。常敏と花都が命を落とし、常秀も右腕をほぼ失ってしまったのです。

 世界は公正ではない。理不尽はいつでも、どこにでもあって、最悪の形で突然襲ってくる。
 どれだけ強い人でも、どんな凄まじい能力をもっていても、そこからは逃れられない。

 ワンダー・オブ・Uは、その理不尽を本体である透流が自分の都合のいいように利用するためのスタンドであり、本体が死亡した後もその作用は続くのです。

 それほどに、理不尽の力というのは強い。作者自身が最終巻の前書きで言っていたように、乗り越えようとしてはいけないものなのかもしれません。

 けれど、それに抗ってしまうのが黄金の精神なのです。

巨大すぎる厄災という力

 普通~だよ、~だから仕方ない。ここでは、~になってるから。

 私はろくに働いていませんが、それでも、この年(2021年9月時点で36才)になると、そういうものが世の中にたくさん積み重なっていることは何となく分かります。そして、それを言い訳に生きてしまうことがあります。組織につながっていない私でさえ、まったくなにひとつ、気にしないということはできないのでしょう。

 それは、私があまり人生に成功していないから、というわけでもないのです。

 恐らく、漫画家として世界的に見てもかなり成功している荒木飛呂彦自身でさえも、そんな風に思ったことは一度や二度ではないのでしょう。

 たぶん、それが世渡りというものだから。

 だから、この誰もが諦める~を利用するワンダー・オブ・Uは、なにかを手に入れまともに生きている全ての人、あるいは手に入れて安心したいと願う人に対して、あまりにも最強のスタンドなのです。

 透流から見れば、世のほとんどの人間は、つつがなく人生を過ごしたい、オブラディ・オブラダに見えるのでしょう。

 オブラディ・オブラダ。あの情けない岩動物をご覧になったでしょうか。あそこまで仗助を追い詰めておきながら、なんとまあ簡単に手放してしまったこと。しかもよくみればろくなダメージも与えられていない様なのです。(ジョジョにおいて、凄まじい負傷がしばらくするとあんまり大したことがなくなっていくのは、お約束かもしれませんけど)

 水という弱点を突かれたからといって、もう少しというところで、倒すべき獲物を手放すなんて。

 五部に出て来たあの素晴らしいプロシュートじみたことを言わせてもらえるなら、『俺たちのチームの誰もが、あともう少しで相手の喉元に食らいつけるってところでスタンドを解除したりはしない』のに。まるでマンモーニです。

 まあ、それは命を張った殺しあいを日常にしているマフィアの暗殺チームの道徳なので、動物や一般人がそんな道徳で生きられるかと言ったら、それまでなのですけど。

 とにかく、世のほとんどの人はそういうマンモーニとして生きるしかなく、だからこそ人間という種族は、結局のところ繫栄して数を増やして来たわけですけど。

ゴー・ビヨンド

 ですが、仗助はしゃにむに挑みました。

 自分がさんざんに負傷させられても、豆銑さんが、虹村さんが命を落としても、康穂が危機にさらされても。
 そして彼らのそれぞれの命がけの戦いと、仗助自身の乗り越えようとする想いが、やがてゴー・ビヨンドというこの世に今まで存在していなかった能力を生み出します。

 ゴー・ビヨンドは、回転という現象はあるのに、回転を成り立たせる糸は限りなく存在しない、という奇妙ななにかです。

 時間停止、空間切断、時間加速、殺人ウイルス、射程距離無限大のカビ、あるいは因果律操作、エトセトラ……誰がどのような力で挑んでも、ワンダー・オブ・Uは決して倒せないはずのですが。

 ゴー・ビヨンドだけは、この世に今まで存在していなかったがゆえに、この世の理不尽に影響されずに突き抜けていくのです。

 透流はなすすべもありませんでした。狙いこそ定まりませんが、ペイズリー・パークによって導かれた無限の回転のシャボン玉は体内に侵入し、破裂して致命傷を与えたのです。

超えてゆくための代償

 今までのジョジョでは、物語が終盤になって、いわゆるラスボスとの本格的な戦いが始まると、味方の登場人物が命を落とすことはありました。

 ワンダー・オブ・Uとの戦いも、その例にもれないといえばそうでしょう。

 だけれども、現代が舞台と明言して描かかれたジョジョリオンにおいて、登場人物の死は、今を生きる私たちにとってより近く感じられます。死や何かを失うということが、明確な恐怖や絶望、悲しみになっているように思えるのです。

 東方フルーツパーラーは仙台でも有数の企業で、東方家は名家であり、本来こんな運命をたどるはずではなかったはずなのです。失うことの重みが特に強く思われます。

 それこそ、オブラディ・オブラダの歌詞のように過ごしさえすれば、良かったのです。

 代わりに、つるぎは代々当たり前だった奇病で、死んでしまいますけれど。

 それでも戦おうとしたこと。誰かのために自分の願いを叶えようとしたこと。死と恐怖を背負ってでも、呪いを解こうとすること。

 その意志と行動が、最後に新ロカカカを引き寄せ、ワンダー・オブ・Uを乗り越える力(ゴー・ビヨンド)を発現させることになりました。ですが、ゴー・ビヨンドが発現できるほど戦ってしまったがゆえに、常敏や花都が命を落としてしまったともいえるのではないでしょうか。

作者の願い

 お若い方には、うざったいかも知れませんが、作者は願いを持っているのではないかと思います。

 黄金の精神を発揮して欲しいという願いを。

 多くの人はオブラディ・オブラダとして生きていく。それは、ジョジョリオンの読者たちだけでなく、二十代の若さで、身一つで東京に出て、必死に生きて漫画家として大成功と呼べる作者自身でさえもそうだ。

 けれど、誰かのために厄災に挑み続けてほしいと。

 それで何が起こるのか。ほとんどの人は、結局強い者に負け、襲ってくる厄災に負け、こんなことなんか、やるんじゃなかったと、泣き叫びながら悲惨に死んでいくことになるのでしょう。

 それは、ほとんど確実なのです。そういう認識を荒木飛呂彦も持っているのかもしれません。

 さらに、そうまでしてやったことも、周囲には評価されず、誰からも疎まれ、さげすまれ、まったく、むくわれないことさえもある。それもまた、現実なのです。

 最終巻のまえがきで、荒木氏らしくないというか、厄災を乗り越えようとしてはいけないのかも知れないとまで書いていることも、『必死にやったけど全然ダメでした、むしろやらない方がよかったです』ということになる重さを認識しているからでしょう。そして、この作品にはその側面が描かれています。

 ワンダー・オブ・Uの、どうしようもない厄災の力は、現実のあちこちに存在しています。透流が死んでもスタンドのパワーが生きていたのは、その比喩なのでしょう。

 日々の生活で、仕事で、政治で、経済で。透流のようにそれを見極め、うまく乗りこなし、操って自分と自分の味方の安心できる場所を作って、生き残っていく。

 それも、正道でしょう。

 作者自身もまた、そうしてきたからこそ、ジョジョはここまでの作品になることができたのかも知れません。

 しかし、そこには、必ず呪いがあります。あなたが助かる代わりに、どこかの誰かが呪いを引き受けているのです。いや、その人だって引き受けたいわけじゃなく、この不平等で不公正な狂った世界で、たまたまそこに居たからというだけで、無理やりにおっかぶせられ、苦しみの中で死んだり狂ったりしているのです。

 スチール・ボール・ランに出て来た、D4Cラブトレインの効果を、私たちは知らぬうちに享受しているのかもしれません。
 それは、世の中という力を通じて、何も知らぬ誰かを自分の為に利用する、『吐き気を催す邪悪』とさえいえるのかも知れない。みんなやってるから、何となくそういうことにしてある、というだけで。

 しかしジョースター家は、たとえ一周後の世界でも、どこかでそれに気がつき、そこに挑んでいく運命と使命を背負っているのです。

 ジョジョリオンの主人公であり、何者でもないはずだった仗助でさえも、彼の原型ともいえる徐世文と吉良を通じてジョースター家の運命とつながっていました。彼自身は気付くことがなかったようですが。

 ゴー・ビヨンド。

 ほとんどの人はそんなことできません。やろうとしても、悲惨な目に遭って、裏切られ陥れられ、さらし者にされ笑われながら傷ついて死んでいくのでしょう。

 でも、呪いとさえ呼べるほど、どうしようもなく誰もがひれふす、恐ろしい何かを超えていくためには、黄金の精神が必要不可欠なのです。その繰り返しで、人類は少しずつ良くなってきたはずなのです。

ジョジョという美意識

 誰かのための余計なことにとらわれ、死んでいく馬鹿な者達。

 その馬鹿者たちが、あまりにも美しい。美しすぎて、荒木飛呂彦という才能に満ちた作家が、人生のほとんどを傾けて書き続けてしまうほどに。

 ジョジョリオンは、とても美しい作品だったと思います。

 ほとんどの人が生きるためには、マンモーニになるしかない、この世の中にあって。いや、こんな世の中だからこそ、一層、燦然(さんぜん)と輝いてしまうのです。

 荒木飛呂彦先生。ご完結、おめでとうございました。
 いつまでもご健康に、力強く、美しい者達を書き続けてほしく思います。
 一読者として、あなたの作品という希望が、どこまでもこの世を照らしますように願っています。

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