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悪質宇宙人としてのオタクとシン・ウルトラマン

 お久しぶりです。片山順一です。近頃めっきり書かなくなって、放っておくとどうにもならなくなってしまいそうです。

 錆びついた頭のために、雑文をひとつ上程しましょう。
 題材は、2022年7月において、大ヒット中といえる映画、シン・ウルトラマンです。

 大ヒットとロングラン上映の影響で、映画本編をご覧になった方も多いでしょうが、性質上かなりのネタバレを含むので、未見の方はご注意ください。

ウルトラマン・リピア

 私は彼(光の星のものたちに、性別という概念があるかどうかは不明ですが)を、庵野総監督の自己投影であり、オタク第一世代だと思っています。つまり、好きなものに懸命であり、人間への理解は苦手で一般の人との間で様々な摩擦を起こすけれど、圧倒的な知識と実力を持った知的エリートです。

 リピアがなぜ人間を好きになったのかは、作中名言されていません。ゾーフィを見ている限り、異星人としての光の星の者たちは、並行宇宙の百億種を超える知生体を知り、それらを平等に扱って宇宙の秩序をつかさどっています。

 そんな種族が、わざわざ百億分の一でしかない人類という種族を好きになり、そのために光の星の使命すら忘れて戦い続けてしまうことは、ものすごく不可解です。

 同様に、オタクもオタクがなぜそれを好きなのかは、よく説明できないと思います。
 幼少期のころ、名作に出会ったからとか、たまたま不遇な時期を作品が支えたからとか。あるいは、性癖を刻み込まれたとか。そういう心理学的な分析はできるかもしれません。

 リピアだって、正義感をもった神永と同化したことにより、彼の強い人類愛に感化されたという解釈も考えられないことはありません。けれど、ゼットンを倒すまで禍特対のメンバーと過ごす間、神永自身の意識がどれほどあったかは不確かです。

 やっぱり、リピアもリピアなりの、しかし本人には説明できない何かに突き動かされて作中の戦いに臨んでいったのだと私は思います。

 それは、作品やキャラクターを好きになり、衝動の赴くままに他人から見れば風変わりな行動に突進してしまうオタクの性のように私は思うのです。

 オタクとはかつて、そのようなものだったと記憶しています。具体的には、漫画の神様と呼ばれた手塚治虫氏が、現役だったころくらい昔。かつて、ウルトラマンが白黒のテレビ放送で流れたのを、小さな子供として見てきた世代でしょうか。

 この世代のオタクを結ぶのは、仲間が居ようが居なかろうが、とにかく、一般人から見れば不可解なほど好きになった何かにのめり込み、誰が何と言おうと衝動の赴くままに行動し続けていく、という生き方。

 今の有名人でいえば、庵野総監督以外だと、岡田斗司夫氏がそのように思えます。

 二人ともSFや特撮、アニメが好きだという衝動が何よりも強く、それを極め抜き、生き方において貫き続けることで、作品や評論の世界で綺羅星のような存在となっていったのではないでしょうか。

 リピアも同様でした。人間が好きだから、好きなもののために命を捨てる勢いで頑張り、太陽系をも軽く消滅させる兵器である、途方もないあのゼットンを退けることができたのです。

 それはまるで、彼らが今でも創作の第一線で戦い続け、人生の全てを、文字通りオタクに燃やし続けているのと同じように映るのです。

禍特対の若い隊員、船縁と滝

 一方で、上記の彼らは、現代に生きる若いオタクを表していると思っています。具体的には、二十代半ばまで、くらいでしょうか。

 そう思ったのは、物語の最終盤、ゼットンが空に浮き始めたところからですね。優秀な科学者である二人の知識をどれだけ動員しようと、そもそも人間の力では絶対に抗いえない人類の滅亡を突き付けられたところです。

 それでもゼットンについての解析を進めようとする船縁に対して、滝はウルトラマンすら勝てないゼットンにはどうにもならないことにふてくされ、飲酒して職場に現れました。

 一見敵わない障害、というものに対する向き合い方が、私は現代のオタクのやり方としてよく表れている気がするのです。

 現代、オタク作品はあふれ、第一世代をはじめとした先輩の方々により、SF的な設定やオタク作品の市民権はかなり確立され、オタク知識はそこら中にあふれるほどに充実しました。少々調べればいつからでも『ハカセ』になれます。

 と同時に、誰でも簡単に調べられる知識など、すでになんの売り物でもなく、持っていて当たり前の疑いえないものになりました。

 だからゆえか、不可解なほどのこれが好きだという衝動は弱まり、確立された知識の消費こそが絶対と考えられるようになったとも思います。

 ゼットンに対する滝の態度は、まさにそれでしょう。人間の上位者であるウルトラマンが負けたものには、人間の力で勝てるはずがない。滅亡は回避できないという線引きの前に、若者は希望を見出せない。

 知識が論理的に立証され、確立してしまったら、やる気をなくしてしまう。だって調べられた絶対的なことなんだから。あらゆるものはすでに作られてしまって、自分がやるべきことがないというどん詰まった絶望。

 他方で、そういう知識が確立しても、何かできるかもしれないといって探り続ける船縁の態度もまた、若いオタクの方々に共通するものなのでしょうが。

 さておいて、そんな滝が投げやりな態度をひるがえしたのは、リピアこと神永に、ベータボックスに関する人間にとっての理解可能な知識を与えられたからでした。

 必要な知識がないから解決できるはずがない、というのは絶望ではなくて。
 必要な知識さえあれば解決できるかもしれない、という希望でもあるのかもしれません。

 彼らにとっての、『救い』ともいうべきか。滝を含めた学者たちは、結局ゼットンを打倒する術を導き出し、神永ことリピアに授けることに成功するのです。

 つまり、回避できるはずがない人類滅亡を、若いオタクたちは、かつてのオタク第一世代に授けられた知識で回避する方法を見出すのです。

 私は、このエピソードから、庵野総監督をはじめシン・ウルトラマンを作ったオタクたちが、若いオタクに希望を見出しているように感じるのです。

 絶対的な問題を前にして、ふてくされた態度や、こんなのできるはずもない、という弱音さえも力強く受け止め。
 大丈夫。一緒にやれば、きっとできるよ、と背中を叩いてくれる。ある種父親のような視線で温かく見守っているように感じられるのです。

若者と老年の間

 ここまで私は、シン・ウルトラマンという映画の中に、庵野総監督と同じ第一世代のオタクと、現代の二十代のオタクを見出してきました。

 しかし、ひとつ落としたものがあります。

 ほかならぬ、この私です。正確には、この文章を書いている時点で、36歳と十一か月になる男性のオタクの私。つまり、初老でも若者でもない中年のオタクの存在です。

 庵野総監督にとって、かつて自らの作品のメインターゲットであったオタク達ですね。

 私たちのようなオタクは、シン・ウルトラマンの中には存在しないんでしょうか。

 私の答えは、『いいえ』です。

 希望のないパンドラの箱を開くような気持ちで、私が受け取った最も重い解釈を述べようと思います。

メフィラスというオタク

 私たちのような世代のオタクは、メフィラス星人として描かれていると思います。

 外星人第ゼロ号こと、メフィラス。彼は人類を好きだと言い、実際に好きだという気持ちも持っています。それはあるいは、私たち人間の基準でいう好意と同じものかもしれません。彼は、人類の文化に染まっています。人類の歴史と文化の賜物であることわざを引用してみたり、ブランコに乗ってみたり。居酒屋でのリピアとのほほえましいやりとりなどは、親近感を通り越して、まるで普段の生活でちょっとした利益を得るために、絶妙にせこい手を使ってしまう私たちのようです。

 ですが、好ましいものに対する態度において、彼とリピアは決定的に異なっています。
 メフィラスは、好きなものから距離をとって、利用することしかできないのです。

 作中、メフィラスの狙いはわかりにくいのですが、簡単に言うと、ベータボックスを与えることで人類を自分の意のままに利用しようとしていました。そして、人類に叡智を授けたものとして、自らが上位者として人類の上に君臨することを目指していたようです。

 それは残虐な独裁者として支配するとかいう乱暴なことではありません。あくまで、人類自身が気づかないように、彼の愛する姿であり続けられるようにするということです。政治家ふうにいえば、『我々に従いさえすれば、国民の方々は安全で安心な今の生活を、なに一つ変える必要はありません』ということでしょうか。

 こういう、人を手のひらで自分の都合のいいように動かしながら、自分は決して表に出ない態度というのは、私たちの世代のオタクに共通のように思います。

 普段はだらしないようでいて、いざとなると凄まじい実力を発揮する昼行灯。
 あるいは、実質的に組織を動かしていながら、面倒な責任を人に任せてうまく立ち回っている陰の実力者。
 責任ある立場ながら、いつでも庶民と交流する気さくな王。
 知識マウントをしながらも、なぜかヒロインを始め周囲から好かれる人たらし。

 ソースは私、というただの実感になりますが、私の世代のオタクは、こういうキャラクターをとても好む傾向があります。シン・ウルトラマンに出てくるメフィラスはまさに、私たちの世代があこがれる、なりたかったすごいオタクそのものなのです。

 もしも目論見通りになったなら、メフィラスは、ベータ―ボックスで巨大化した人類を傭兵として宇宙各地に輸出しながら、地球の安全保障を確立しつつ、彼にとって好ましい人類の文化や歴史を楽しみ続けるのでしょう。

 人類が彼を脅かすことはなく、彼は人類を守る上位者として尊敬され愛され続ける存在となるのです。兵器として輸出される人類の痛みには目もくれず、想像すらすることなく。

 人類を愛するリピアはそれを許しません。結果的にメフィラスの考えるような事態になるにしても、巨大化にまつわる技術は人類に手に入れさせ、技術に伴う痛みには、人類自身に向き合わせます。

 だから、人類を好きになった者同士でありながら、二人は戦う運命にあるのです。

痛みに弱い『悪質宇宙人』

 戦いは、ウルトラマンとしてのリピアの実体化やスペシウム光線の原理を知るメフィラスの有利に進みました。昭和の時代のウルトラマンで、メフィラスとウルトラマンが全くの互角だったこととは微妙に違います。

 ウルトラマン、あるいは老年に達するオタクの積み重ねた知識の抜け落ちや、現代への適合方法を熟知する私の世代のオタクが、あらゆる分野で社会のメインを張っている現状を、あたかも表すかのように。

 しかし、メフィラスは自分が有利にもかかわらず戦いを切り上げて逃げ出してしまいます。

 ゾーフィの姿を見た、つまり天体破壊兵器ゼットンの影を感じ取ったから。
 いくら自分の狙いのためとはいえ、これ以上戦うと自分の身を危険にさらす事態になったからです。

 そう。メフィラスは、ウルトラマンに勝てるほどの力を持っていながら、人類という自分の好きなもののために戦わずに、逃げ出してしまったのです。

 ここに、描かれず語れなかったメフィラスの弱点があると思います。

 すなわち、自分の痛みに弱いということです。
 自分が傷つく可能性があることは、できないのです。

 もっと言うなら、決して本来の実力を発揮できていないともいえます。畑違いになりますが、HUNTER×HUNTERでいえば、イルミの針を引き抜いていない状態のキルアとでもいいましょうか。

 昭和のメフィラス星人は、人間の知能指数で10000を超えるという設定がありました。わかりませんが、シン・ウルトラマンの方もそれくらいあることでしょう。

 だからこそ、かも知れませんが。あえて言います。彼は、それなのに、危ない橋を渡ることができない。好きなもののためにさえも、自分を危うくして頑張ることができない。ウルトラマンにも勝てるほどの高い能力を、力いっぱい使って、自分の責任の下で困難に立ち向かうことができない。

 そうすれば、『ウルトラマン』になれるかも知れないのに。

 でも、それは嫌なんです。傷つくのが怖いから。だから人類を見捨て、作品世界から逃げ出して、またどこかで自分の満足できる人類っぽい何かを見つけて満足するんです。

 負けたことも逃げたことも記憶から消して。

 一番大事なのは自分の痛みでしかないんです。大事なものもあるけれど、大切なことはわかってるはずだけれど、自由を大切に思う気持ちは持っているけれど。

 つまり、『痛みを知るただ一人』ではあるのだけれど。
 知っているのは、『自分の痛み』でしかない。

 ゼットンに滅ぼされていく、自分の大好きな人類の痛みのためには、命をかけられないんです。それよりも、負けるかもしれない人類と戦って、結局負けたときの自分の痛みの方が重いから。

 庵野総監督の作品を借りて言うなら。
 ATフィールドという自らの心の壁から、決して出て来ることはないんです。

 それが、旧エヴァの劇場版ラストですべてを失い楽園から追放された後、日常系や学園謎部活、あるいは絶対に主人公が正しいストレスのない異世界転生、はたまた誰も傷つけない美少女動物園に逃げ込んで現実をやり過ごしている、私という中年のオタクなのです。

 そんな奴に、人類の存亡をかけた戦いの仲間になる資格はない。
 10000という知能指数をフルに使い、精いっぱいに大物感を醸し出しながら、どこか好きなところに逃げればいい。

 でも人類には、お前なんか必要ないぞ。
 なあ。ウルトラマンになれなかった、『悪質宇宙人』さん。

シン・ウルトラマンという映画

 この作品、CGや絵、セリフのやり取り、BGM、脚本のスピードなどなど、一見して全くけちのつけようがありません。

 盛りだくさん過ぎるという内容や、長澤まさみへのセクハラが過ぎるのではないかというのは、私も同意するところですけれど。とにかく、一見して大満足でした。非常に高いレベルの映画であり、名作であることは疑いようもない。

 だけれど、オタクによるオタクを描いた作品として見たときに、私という中年のオタクにとってはとても苦い部分を含んでいます。

 私はまだ、新エヴァを一作も見ていません。

 私の中のシンジ君は、過酷な世界の中でもがき苦しみ、うなだれてたった一人で追放され。量産型との戦いでぼろぼろのぐちゃぐちゃに打ちひしがれたアスカに拒まれて、うずくまったままなのです。

 そうなるのが嫌だから、私というオタクは、悪質宇宙人の立場をとってしまいます。だから私よりもっと能力が高く、もっとうまく立ち回ることのできるメフィラスが魅力的に映ります。

 しかし、そんな悪質宇宙人は、人類の本当の脅威の前には逃げ出すしかないのです。

 私はATフィールドの中で膝をつき、そのはるか外で禍特隊とウルトラマンがゼットンに立ち向かうのをただただ、眺めているのでしょう。

 彼らがともに笑い、泣き、あるいは争い、失い傷ついて、しかし心から喜び合うのを、ただ見ているのです。

 それが、庵野総監督という、勲章をもらったオタクが描き出したシン・ウルトラマンにおける結論だと私は受け取りました。

 だからこのパンドラの箱には、私にとっての希望は入っていませんでした。

 しかし、それでいいとも思います。
 現実を動かすのは、いつだってまともに戦う人だけなのだから。

 シン・ウルトラマン。
 私という悪質宇宙人にとって、好きとも嫌いとも断じ難い映画です。


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