富士の湯に(4)



 沼田は左手の筋肉を何とか弛緩させてようやくハンドルから引き剥がし、サイドブレーキを引いた。堰を切ったように激しい呼吸がはじまり、左胸を内側から殴りつけるように心臓が乱暴に脈を打ち始める。ハンドルを握りしめた右手と、ブレーキを目一杯踏み込んだ右足はそのままに、沼田は五秒間ほど目の前のフロントガラスを呆然と見つめた。そこに張り付いた何かは、濡れた服のように見える。袖や首回りと思しき穴からは、吐瀉物のような液体が激しく飛び散り、フロントガラスをはみ出して横の窓ガラスにまで広がっていた。自分の荒い呼吸の中に混じる尋常でない臭いに気づいた沼田は、思わずドアを開けて外に飛び出した。
 
 車の外から見るその光景を前に、沼田はとりあえず、唯一確かに理解できたことをつぶやいた。

「くっさ……」

 車の中のほうがまだマシだった。沼田が最近思い切って買った新車のセダン。フロントガラスとバンパーにスウェットの上下がびしょ濡れで張り付いている。汚れが目立たないようにと選んだ黒い車体のボンネットに、黄色味がかった吐瀉物が鮮やかに大輪の花を咲かせていた。車体の三十メートルほど後方から点々と細かいシミが道路に飛散し、開けっ放したフロントドアと車体の側面、ルーフにもびっしりとその痕跡が付着している。

 周りを見回してみたところで、まだ薄暗い明け方の道路に人通りは全くない。だからこそ沼田も油断しきっていたのである。上がった息がまだ落ち着かない。喉の奥からアルコールの臭いがせわしなく漏れ出してくる。正直、衝突の直前は一瞬意識も飛んでいた。

 しかし確かにその瞬間、人の姿を見た記憶がある。だからこそ急ブレーキを踏み込んだのだ。目の前の人間がついに車体と接触し、「人を轢いてしまった後の世界」で生きていくのだと悟りかけた次の瞬間、まるで巨大な水風船が破裂したかのように、フロントガラスに黄色味がかった液体が飛散した。物理的にはほとんど何の衝撃もなく、エアバッグも開かなかった。バカバカしい話だが、沼田は急ブレーキを踏みながら、咄嗟に「溶けた!」と思った。

 そんなわけはない。しかし、ではこの状況は何だと言うのか。汚物まみれの自分の車と、その車体に張り付いたスウェットを呆然と見つめ、沼田は必死に考えてみた。

 自分が咄嗟に人と見間違えたものは、実はゲロとうんこと小便が服を着て歩いていたものだった…?

 そんなわけはなかった。何が「服を着て歩いていたもの」だ。

 沼田はもう、事態の解釈を放棄した。とりあえず車の中に戻ってドアを閉めると、ゲロとうんこと小便の臭いが心なしか和らいだ。さっきまでより少し高くなった朝日がフロントガラスに差し込み、ぶちまけられた吐瀉物の輪郭が逆光でさらに強調されている。改めて見ても、まったくひどい汚れ方だ。このままガソリンスタンドに持って行って洗車できるものなのか。ゲロで前が見えにくくなった状態の車を運転するのも問題がありそうだ。少なくとも、服はどかさないといけない。どうやってだ。素手で掴んでか?大体、この事故は通報するべきなんだろうか。いやまず、そもそもこれは「事故」と言えるのだろうか。一体何て説明するんだ?

 沼田は悩んだ。そしてその間、轢死した吐瀉物と排泄物は日の光と風によってほんのわずかに水分を失い、揮発したガスの粒子は生暖かいそよ風に運ばれて、車両から百メートルほど後方、自転車で早朝の巡回中だった関口巡査の鼻腔を微かに刺激した。

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