ロダンの人生最後の屁も

露天風呂入ってると思うんだけど、日本は野外で全裸になってる人口(のべ)で言えば先進国の中ではずば抜けてるんじゃないか。草木と、山と、虫の鳴き声とともに、みんな当たり前のように全裸である。この日本はですね、え~まさに、国民ひとりひとりがですね、え~野外で、年に一度はですね、まさに全裸であると、こう、考えているわけであります。美しい国、ニッポン!…みたいな。

ところで、シーザーがおなじみ「ブルータス、お前もか」と決め台詞とともに吐いた人生最後の一息、それに含まれていた気体の分子(主に窒素、二酸化炭素、酸素)が、我々が今この瞬間に吸った一息に含まれている確率はどのくらいか。そんな科学の授業の楽しい脱線問題が存在する。

ざっくり言うと、これは割りと100パーに近いらしい。人間の一呼吸の中にとっての気体の分子1つは、地球の大気全体にとっての人間の一呼吸と同じくらい小さく、数が多いらしい。10,000個に100個の割合(100分の1)で“まんべんなく”当たりが入ってるくじを100個引けば、まあ1個くらいは割りと当たる、みたいなことなのか。これは吐いたものが世界中に拡散してるくらい昔なら、シーザーじゃなくてもいい。明治だけど、「板垣死すとも自由は死せず!」でもいいかもしれない。まあ、どうせどっちも言ってないだろうし。

じゃあ最近の日本で吐かれたものとなれば、それはもう確実に吸ってるだろう。我々の吸う一息には、ご公務に疲れた佳子さまのため息も、二日酔いのみのもんたの屁も、恐らく含まれている。天国であり、地獄である。世界はそうなっているらしい。みんな文字通り、同じ空気を吸ってる。「潔癖症」なぞ片腹痛い。

公衆浴場ってのは、そういう世界の有り様を受け入れる訓練の場なんじゃないかと思ったりもする。男湯なんてもう、よくよく考えだしたら精神が保たない。「他人の汗が…」とか「知らない人が使った足ふきマットが…」なんてのはまだまだ甘い。おじさんの肛門と混浴してるのだ、おれは今。ついでに金玉の裏っ側もだ。

いやしかし、おれはこのおじさんたちがずっと前にしたゲップとかも、もう吸ってる。下手したら産声あげた時に吸ってる。今更もう遅いのである。それが嫌なら死ぬしかない。であれば、これはもうその思考回路のスイッチを切って、ただ湯につかるのみ。考えるな、感じろ。そうすれば、そこには温泉の心地よい温もりだけがある……。

こうして考え事をした挙句、今、自分が外で全裸でいることを思い出す。何をやってるんだ。外で全裸で考え事って。彫刻か。露天風呂はそんなところが楽しい。

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