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90年代最大の歌姫 〜ローリンヒルに何が起こったのか? 1/2

罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は、我々が考えているより薄い 

〜村上春樹

90年代中盤から後半にかけてブレイクしたR&Bシンガー/ラッパーのローリンヒル。ストリート感あふれる同世代のR&Bアーティスト(メアリー J ブライジやTLC)よりも、スピリチュアルで社会派なイメージで、時代のアイコンへと上り詰めた。日本で絶大な人気を誇った安室奈美恵が、音楽からファッションまで参考にしていると公言するほどのカリスマだ。*最近では関ジャムで、AWICHが名前をドロップしてましたね。

史上もっとも売れたアーティストの一人でありながら、いつからか失踪・不倫・カルト・逮捕と悪い話ばかりが相次ぐようになり、表舞台から姿を消してしまった。

それまで猫をかぶっていただけなのか? それとも彼女は変わってしまったのか? ボクは後者だと思っている。

一体、何が彼女を狂わせたのだろうか? 

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1975年、ニューヨーク郊外の街 ニュージャージー州サウスオレンジにて、コンピュータ・アナリストの父と、英語教師の母のもと生を授かる。別にゲットーやプロジェクト出身ではなく、ごく普通の中流家庭だ。両親ともに音楽好きで、子供の頃の子守唄は、マービンゲイの What's Going On だった。

成績優秀でチアリーダーやタレントショーにも真剣、学校外でも聖歌隊に入ったり、ニューヨークの演技スクールに通うような、とにかくバイタリティ溢れる活発な子供だったという。

13歳の時にはNYのアポロ・シアターで開催されたアマチュアコンテストでブーイングを受け、舞台裏で涙を流す経験をした。13歳をブーイングなんて日本では考えられないけど、「舞台の上ではみんな平等」そんなエンターテイナースピリットを教えるためか、母親からは「ブーイングされたくらいで泣くなら。歌なんてやめな」とアドバイスされた。

高校にはいると、3つ上の先輩 Prasに誘われてヒップホップグループに加入する。当時の名前はTranzlater Crew、のちの The Fugees(以下、フージーズ)である。発起人であるPrasとローリン、そしてローリンの後に加入してリーダー的存在となっていった最年長のワイクリフの3人編成だった。ワイクリフとPrasがハイチ系移民だったこともあり、レゲエやカリブ音楽の影響を色濃く受けたスタイルを確立した。

ローリンはもともと歌専門だったが、ある時からラップの練習もスタート。ICE CUBEのような男性ラッパーに憧れて、夜な夜なクラブのトイレで練習していたそうだ。

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さらに音楽以外の芸能活動も、かなり積極的に行なっていた。

高校時代には女優として、女性ラッパーのMC LYTEが手掛けるオフブロードウェイミュージカルや、スティーブンソダーバーグ監督の「わが街 セントルイス」、人気の昼ドラ「As the world turns」などに出演を重ねていった。

しかし我々にもっとも馴染み深いのは、

この『天使にラブソングを2』じゃないだろうか? 

この時、ローリンは弱冠 18歳。

この圧倒的な歌唱力は高い評価を受け、なんとマイケルジャクソンも自身のレーベルからデビューさせたいと目論んでいたらしい。ちなみに下記のラップシーンの撮影は、「本当に台本なしのフリースタイルだったからビックリした」と、この映画の監督が何かで語っていた。

そして翌年。

フージーズは『BLUNTED ON REALITY』でレコードデビューを果たす。


いま振り返ると、その表情にも初々しさが感じられる 1st アルバム。ビルボード R&B/Hip-Hop アルバムチャートでは62位とまずまずの結果だったが、フージーズがトップアーティストの仲間入りをするのは、その2年後に発売された2ndアルバムでのことだ。『The Score』( https://amzn.to/3ERdPtw )は発売後すぐにビルボード1位を記録すると、半年間にわたってトップ10をキープ。これまでになんと2200万枚を売り上げ、史上最も売れたアルバムの一つとなった。

東西抗争でギャングっぽい側面ばかりがクロースアップされていた当時のヒップホップ界において、高学歴で(当時ローリンはコロンビア大学、Prasはイエール大学に通っていた)社会派のメッセージを発信するフージーズは、ヒップホップの良心や希望と言える存在だった。

技術面においても、ローリンとワイクリフは歌もラップも両方こなせる マルチプレーヤーで、フロウにもメロディを感じるほど音楽的だった。当時は、これが本当に特別なことだったのだ。それに加えて、ロバータ・フラックの『やさしく歌って ~Killing me softly』や、ボブ・マーリーの『NO WOMAN,  NO CRY』など過去の名曲を掘り起こすセンス。

フージーズは、既存のヒップホップファン以外をも虜にする魅力に溢れていた。

こちらが『Killing Me Softly』のカバー

こちらは1stシングルの『Fu-Gee-La 』

( 元ネタ:Teena Marie の Ooo La La La )

『Ready or Not 』

(元ネタ: DelfonicsのReady or not here I come )トラックにサンプリングされた「Boadicea」という楽曲の著作権侵害で、Enyaに3億円ほどの賠償金を支払うことがあった。

セールスのみならず、賞レースでも存在感を示したフージーズ。MTVとグラミー賞での受賞の様子がこちら。BECKとかマカレナとかに時代を感じるw

ローリンとワイクリフは恋に落ちた。アーティストとして惹かれ合ったのも、スターダムを駆けあがっていく興奮による吊り橋効果もあっただろう。結成時はまだ高校生だったことを考えると、5歳年上のワイクリフは頼もしい存在だったはず。しかし彼はローリンに対して誠実とは言えない扱いをする。1994年、ワイクリフはローリンとの関係を続けたまま、年上の女性と入籍してしまったのだ。

その2年後、今度はローリンの妊娠が発覚して事態は急展開をみせる。なんとその子供の父親は、ボブマーリーの息子で元フットボール選手のローアンマーリーだった。ワイクリフとの三角関係を心配していた友人がローリンに勧めたのがきっかけで、ふたりは交際を初めた。しかしその裏では、ワイクリフとの関係も続けていたのだ。

この時のことについて、ワイクリフは2012年に出版された自伝『PURPOSE 』の中でこう記している。

「妊娠したローリンは俺に、あなたの子だから認知して欲しいと迫ってきた。でもその子の本当の父親はローアン・マーリーだった。危うく俺は自分が父親だって信じるところだったよ。彼女はもうぼくの”ミューズ”(憧れの女神)じゃない。」

自分に本気で惚れているのをいいことに、ローリンを都合のいい女として扱っていたのでは?と感じてしまうのは、僕だけだろうか。とにかくこの恋愛関係のもつれが、フージーズのその後に大きな影響を及ぼすことになる。

1997年に、ワイクリフは初のソロアルバムを発売。


このアルバムはそこそこ売れて、グラミーにもノミネートされた。で、当然ローリンも「ソロアルバム出したい!」ってなったのだが、ワイクリフはなんとその協力を拒んだのだ。後のインタビューで、「フージーズの成功は自分のクリエイティビティのおかげだ」的な発言を繰り返しているワイクリフ。仕事でも恋愛でも、マウントをとりたくてしょうがない男なのだ。

これまでも紅一点のローリンに注目が集まることは珍しくなかったが、彼女は個人のCMオファーは断るほど「チーム」を大切にしてきた、、、それなのにワイクリフは自分のことしか考えていない。そんな思いが、ローリンを変えていく。

ワイクリフとの泥沼化した関係を清算し、女として、そしてアーティストとして独り立ちする。そんな決意を持ってソロアルバムの製作にとりかかった。

1998年の『MISEDUCATION OF LAURYN HILL』は、セルフプロデュース。(もともとレコード会社は、WU-TANGのRZAをプロデューサーに迎えようとしたが、ローリンが「自分のことは自分が一番わかっている」とセルフにこだわったらしい)。ワイクリフの操り人形ではなく、ひとりのアーティストであるということを証明するには、セルフプロデュースが不可欠だったのだ。

まずはフランキーヴァリの『Can't take my eyes off of you ~君の瞳に恋してる('67年)』のカバーが、メル・ギブソン&ジュリア・ロバーツ主演の映画『陰謀のセオリー』の主題歌に決まり、ラジオで先行放送される。

その後も出すシングルがすべて大ヒットを記録していく



中にはワイクリフをDisってるような曲もあったりして、、、

発売週に42万枚、最終的には世界で2000万枚と売れに売れたこのアルバムは、1999年グラミー賞で10部門にノミネート、5部門受賞という女性初の偉業を達成した。

日本でもCMに!

アルバムセールスの印税は45億円以上とも言われ、チャーリーズエンジェルやボーンアイデンティティ、マトリックスといった人気映画への出演依頼も殺到。業界を超えて、トップスターになったローリンヒル。彼女はこの2年後に突如 姿を消すことになる。。。

つづきは、こちら








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