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私の視点は奪われない

私自身のことを書くこと、精神的なことでなく、外的な活動を書くことは少しためらわれた。しかし、今日の気づきと自信を喪失する前に記録に残しておきたいと思って、手を動かしている。

だらだらした自己紹介のようなものになる。

やっと過去形にすることが出来たから、多くのことを書けると思う。

昨日の「普通に擬態する」という表現から気が付いた方もおられるかもしれないし、初めて知る方がほとんどだと思うが、私の前々職は「表現者」であった。今みたいな気軽な気持ちで綴るとかではなく、舞台に立って芸をする様々なことでお金を得たり生活に困窮したりしていた。

様々なことってなんだと思われるかもしれないが、演劇・ダンス・日本舞踊・殺陣。注目を浴びられることと舞台の上で表現して空間を作ることに情熱を注いでいた。しかもありとあらゆることをやって方法だけ知って、次のことをやり始めるものだから、何が得意とかはない。知的好奇心と強いて言うなら体も心も柔軟性はある。おかげ様で経歴の説明のしにくさこの上ない。この生き方だけはお勧めしない。

一つ所に居られない感覚とずっと同じところに居たい矛盾を抱える私はある時、めちゃくちゃ芸術に冷めて引きこもった。中身がないくせに思い付きや発想で人を惑わすようなことをしてしまうと言われた。思ったことを言っているだけで、こんなに怒られるのかということが何度もあった。

私はいつも本気で物を言っているとはいえ、どう考えても私如きに裏切られたとかそんな感覚を抱くしかないお前の感覚が悪いと思った。それから私は「嫌」を口にするのが苦手だから、私発信の悪口を言わない。でも共感性というかミラーリング能力がある。「見知らぬあなた」の鏡となって、その人の抱えていたものを言語化してしまうことで、黒く黒く染まっていった。

気づいたときには息をするのもやっとだったし、引っ越しの未開封の段ボールだらけの実家の片隅の私の部屋はいつも暗くて、二つもある窓を閉め切っていた。

もう人間と関わりたくないから、真面目に生きようと思って大学に行き始めた。そして芸術なんて理解がなさそうな制約の多そうな教育現場(という私の偏見)に身を置いた。人間と関わりたくないのに教育を選んでしまう不可思議さが、後から考えれば「私」の本質である。「そんな主語と述語の組み合わせある?」「接続がおかしくない?」「思い付きがよくわからない!」何年も付き合いのある人にもそんなことを言われるのだけど、もうこれが私だと最近やっと開き直り始めた。

教育の現場で私は仕事を始めた。保護者の罵詈雑言の嵐に閉口しつつも、表現する時に失った人間への禊というか贖罪のためにはじめたので、離職率がめちゃくちゃ高い中なんとか自分の決めたゴールまで走り切ることが出来た。仕事内容の詳細を書くと色々まずいかもしれないのでここでは割愛する。一言でいうならば夏休みの終わりを怖いと感じるあなたのための仕事をしていた。

舞台という空間の捉え方は少し特殊だ。

前から見た客、後方や頭上の視点、舞台に立つものだけが知る出入りする幕の裏側、音楽、照明、配布物、ポスター、衣裳、メイク、声、言葉そのほかいろいろ。

立体的に空間を描き出し、その空間の一部分として調和する。自分たちで作る箱庭は、自分でいうのも難だがとても美しかった。

学生時代にそんな体験の虜にさせられてしまった私は、外の世界ではなかなか通用しなかった。それから周縁からじわじわと攻め、いきなり本質をえぐるような物の見方と言い方は多分好かれなかった。斜に構えているみたいなことだと思う。もしかしたら人に恵まれなかったのかもしれない。

今でこそようやくフラットに物事をとらえる視点が重宝されはじめた。ましろさんの視点面白いですね。そう声をかけてくれたあなたたちのおかげで、少しだけ自信を取り戻せた。

教育を通して生きることを見つめるようなピースと「表現者」として舞台のすみで空間を作っていたピースが私という空間に段々にはまり始めたのだ。

不用意に傷ついて自信を無くしていたけれど、私は誰にも奪われない視点を手に入れた。今ならそれぐらい言える。人が簡単に得たいと思って見える世界ではないんだと、お世辞やうわべ無く、それが真実だと知った。

誰にも侵されることのない私だけの視点と視界がある。そのことに気が付いた。

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