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右肩上がりの文字と処世術の話


「ねえ、知ってる?頭のいい女の子の文字はね、みーんな右肩上がりなの」

いつだったか、私の字を見た友人Wがそう言った。

中学生になるまでは大きく丁寧に文字を書いていた。しかし、中学校入学後あまりに授業の速度が早くてノートをとるために文字が崩れた。それから2つ上の先輩の斜めの文字が妙にアーティスティックでかっこよく衝撃を受けた。ランドセルを背負わなくなったばかりの私は毎日夢中で先輩の文字を模写した。
結局私の字はその先輩のかっこよさを少しは真似できたが、自分の雑さに負けた。文字の概略を雰囲気で書く私の字は象形文字と呼ばれている。

Wの文字が私のような右肩上がりの斜めの文字でないことだけは覚えている。確か繊細で小さく少々ポップな文字だったと記憶している。

私は別に頭が良いわけではない。何だったらWよりは絶対に悪い。英語のクラスはいつも一番下だった。でも、Wがその時に私にああいう言い方をしたのは「頭のいい女の子」と称される人々への妬みと自分を引きずり下ろした世間への憎悪だったのかなあと思う。ひどくゆがんだような口元が何故か時々思い出されるのだ。

「頭のいい女の子」として生きていくことを私は早々に諦めてしまった。理解されないような行動を繰り返してから、今では真面目そうでもめちゃくちゃ出来るわけではない人のイメージに擬態している。私が作ったわけではない世間的なイメージを借りて呼吸をしている。Wは葛藤に葛藤を重ねてから諦めてしまった。結局のところ私たちに足りなかったものは、その器と平凡な世間の目と声に耐えきれるだけの自信なのだと思う。

世の中で成功を納めるには処世術が必要だ。処世術で生き抜いていく人のことを馬鹿にしている訳じゃない。それは別な能力で、知識に愛された私たちには努力しても身に付けられないものなのだ。


だから、違う生き方だから、私たちをほおっておいてほしい。
祭り上げた神童を、その座から引き摺り下ろしてその肉を喰らうのは、正義でも何でもない。
彼女の口元をゆがませた声の大きい凡人たちを私はひどく憎んでいる。

私には出来なかったから、才覚を感じる子に出会ったら、諦めないで欲しいともつぶされないで欲しいとも思いながら、最初から苦労を選ばなくても良いように道を断つことも含めて複雑な入り混じった気持ちで、いつもこんな話をする。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。