「寂しい」という感情が今日の私を動かしている

普段生きている時は性別なんてまるで気にしていないような顔をして、時々自分が女であることがとてつもなく苦しくなる時がある。

女の子の友達が多い。それはずっとそう。頭のつくりはわりとがちがちで論理的なのに、突拍子もないことを言ってしまう感性の豊かさみたいなのを持ち合わせているのと、否定から入らないことと押し付けないことをポリシーにしているからかもしれない。それから自分が一番きれいに見える服と化粧と体のつくりを考えることが好きだから、女の子にしか有益じゃないというのも大きいかもしれない。

それから女性なのに男性っぽいという頭のつくりや言葉の冷静さや背の高さを持っていることを場に応じて上手く使ってきたからかもしれない。直近の仕事場ではズボンしかはかなかったし、それを個性にして仕事をしてきた。

多分この寂しさは、私がそうやって性別をぼかして上手く使ってきた罰で現実なのだと思う。私を頼ってくれていた人がまた男と結婚してしまうのだ。

わざと憎まれ口をたたいた。

本当はそこまでおどろおどろしい言葉にするほど憎くはなくて、私の大好きな綺麗で可愛い女の子たちを取らないでよという我が儘を叫びたいだけなのだ。「子供が欲しい」を叶えるために選ばれていく男たちにそう、ちょっとした、嫉妬をしている。

私の方が女の子を分かっているし、合わせてあげられるし、ちゃんと仕事をしているかどうかはすこしあやしいとしても、困らないお金は稼げるし、美しくなるためにかけた労力を絶対に気づいてあげられる。それから絶対一緒に居て楽しい時間をあげられる。セックスが好きな子はそりゃあ私はあげられないから仕方ないという気持ちになるけれど、それほど好きでもなく、義務で子供のためにするしかないのなら、もうそれは私ともっといてくれよと私が騒いでもいいじゃないか。

それを恋愛に昇華して表立って騒げないのは、内面しか与えられない自分の存在に気が付いているから。法律に則った結婚はおろか、親にも兄弟にも紹介できないし、安定が欲しくて結婚するのだろうに、それで苦しむのはやっぱり本質的でないなと思うからなのだ。私との関係はやっぱり親しい友人ぐらいでちょうどおさまりがいい。あ、これは私の私に対する考えで、そういう生き方を選んでいる他の人への批判とかそういうことではない。

本当に寂しい。もう寂しさで体が縛られてしまうぐらいには寂しい。目の前で起こったことは、夕飯を時々食べてくれる友人が私の生活空間から一人いなくなったそれだけなのに、喪失感が私を襲う。全てとは言わないまでも生活の大半を無造作にさらけ出していた人との交友がなくなっていくというのはこんなにも寂しいことなのか。

私は先の見えない私の世界を時々ディストピアのように表現して、少し自分で嘲りながら、世界を成立させているところがあるのだ。ディストピアかユートピアかなんて紙一重に違いないから、願わくばもう少し私の世界と交わり続けてほしい。そんな気持ちがある。

寂しさで正気でいられないから、熱中できる何かが欲しい。そんな気持ちが今日の私を形作っている。


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