目に見えないモノの断捨離をする決断

断捨離をしようと思う。

目に見えるモノは捨てればなくなるし、買ったりもらったりしたら増えていく。
「気が付いたら増えていた」なんていう言葉の裏側は、惰性に買い物をした自分への言い訳か思い出を目に見えるモノで認識するタイプなのかもしれない。
本・写真・ぬいぐるみ・服・化粧品…捨てられない理由はそれぞれにあって、だから片付けられない○○なんて特集が組まれる訳だ。

私の部屋はモノが多い。小さな部屋に多くの物を自らのルールに従って並べている。モノの量のわりに片付いて見えるのはルールが厳しいからにすぎない。実際のモノは多いが、ルールでモノを並び替える定期的な断捨離が大好きだ。

前置きが長くなった。
これは目に見えるモノは捨てられるけれど、目に見えないモノが捨てられない私の話だ。目に見えないもの、すなわち思い出、知識、記憶…。無造作に詰め込まれていた脳の引き出しはもう限界だと思う。開けた覚えのない引き出しが次から次へと開いてしまう。だから断捨離を試みたいのだ。
目に見えないモノの断捨離の仕方を色々な人に聞いてみたり、調べたりするが書いていない。あまつさえ「記憶力が良いことの自慢ですか?」とか言われる。記憶力が悪いとは確かに思わないが、受験勉強が出来たわけでも、何でもない。ただ不安から目に見えないモノが捨てられないだけの人間なのだ。


これが幻覚を抱えているとしたらどうだろう。完全に社会的にまずい部類の人間とみなされて、何らかの処置が行われているであろう。私というものは目に見えない有象無象に人間の皮をかぶって、ぎりぎり人間の振りをして生きている。そのことは既に承知している。

私の記憶でいう断捨離したいものは通りすがっただけの人の名前だとか顔だとか誕生日だとか調べれば書いてあるようなこと、それから思い出。
思い出を記憶として保存する際に1枚の写真に紐づいて情報を入れていくので、フラッシュバックとかそんな鮮烈な勢いはない。じわじわと写真が醜態をさらしたり、心臓をぎゅっと掴んだり、第三者目線の考察が頭の中で渦を巻く。現代の若者がいいなと思ったらスマホのカメラで写真を撮りSNSでシェアするように、私は自分の目でシャッターをきって自分の中にしまっていくのだ。自分の意志で引き出しを開けることも出来るし、関連する項目を探し出すことも出来るが、最近開けたはずのない引き出しが勝手に開くようになってきた。
年を取ると涙がにじむようになったり、口が緩くなったり、体の感覚が曖昧になっていくのだというが、私の脳も今まさにそんな感じだ。ゆるく誤作動が起き始めている。


そこで断捨離をしようと決意した。ダイレクトに記憶を捨てる方法があれば勿論それがいいのだが、そんなものはないので、一つ一つ開封しながら中身の容量を減らしていこうではないかという試みである。すでに趣味の観劇や化粧全般については、書いて言語化することで頭に残す容量を減らしてきた。話すだけでは昇華してもまた同じものが芽生えてしまうので、やはり書くのが私には良いらしい。ここでは私という有象無象とそれにかかわる人との少々人間的で、個人的な記憶や考え方を断捨離していきたいと思う。

#自己紹介 #エッセイ #日記 #断捨離

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