Kに捧ぐ


「Hに捧ぐ」

この4文字から始まる『感情教育』という小説を御存じだろうか。フローベールではなく、女性同士の恋愛を描く現代日本の作家中山可穂の作品である。どの作品も女性であることの生暖かい温度を丁寧に描いていて、肌の柔らかさに包まれた気持ちになる。詳しい中身については割愛するが、この本を私にすすめてくれた人をKとしよう。彼女がその年のクリスマスに携帯電話を良く落とす私にケース(布製の少々ださいもの)と水玉のタオルをくれたことを、この本の表紙のしわくちゃのシーツを見るたびに思い出す。

携帯ケースの行方はもう全然思い出せないし、使ったかどうかも怪しいものだ。でも、派手な柄が好きな私が絶対に選ばない、カラフルでパステルな水玉のタオルは、汗を吸わなくなってもずっと家に置いていた。

彼女は私の読書経験の半分を作り上げ、私に人間の醜さや嫉妬と情愛の混じった感情を教えてくれた人だった。私の思春期の友人であったことは確かなのだけれど、友人とも親友とも言い難く、恋人というには盟約もなく、「半身」というのが今思えば一番近いかもしれない。彼女との関係が切れた後、私は数年糸の切れた凧のように飛び回った。凧であった時の記憶は不思議と薄く、自分であることを認識していなかったのかもしれない。今の私になった時に10年ほど使った水玉のタオルは捨てた。


何度も何度も思い出を綴ろうとするのだけれど、その度にやめてきた。今普通に書き始めているのは、それはきっと彼女が完全な過去の人になったからなのだ。同級生たちに彼女と過ごした季節のことを聞かれても、何となく記憶のない振りをして「覚えていない」と笑いながら答えられるようになった私のことを私は受け入れられるようになった。

勿論名称としての彼女は私の歴史に出てくるのだけれど、「徳川家康が江戸幕府を作りました」というような普遍の事実としての温度しか持たないようになった。彼女は人と関わることが下手で、モノを捨てることの出来ない私の「継続」ボタンを押させてくれなかった唯一の人かもしれない。物事や人や時間はつながっていると大事に抱え続ける私の手からするっといなくなってしまった。だから私が思い出す姿は青の細い眼鏡のフレームと白いストライプのシャツとジーンズ地のスカートの10代のKだ。水色と薄いピンクが好きなKの姿が更新されることは恐らくない。

なんだか文章に起こしてみると、ただただ重たさばかりが残るが、私という人間の欲は彼女によって形成されていったのだから、仕方のない話なのかもしれない。Kとの軽快な日々の思い出は、また後日書くことにしよう。

#エッセイ #女性 #友人

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