「知りたい」という欲に勝てない

脳の容量がないから、頭の中身を断捨離をすると宣言してnoteを書き始めた。


そもそもなぜ私はモノをため込むようになったのだろうか。誰しもが想像できるような背景があれば、その原因を取り除くことが環境改善の一歩になるはずだ。しかし、私が目に見えないモノを集め始めたわけはもちろんいまだ不明だ。


記憶の始まりは、2歳になったばかりのころに見た田舎の家で曾祖母がベッドに座る姿だ。人よりもしかしたら早いかもしれないが、お母さんの体の中にいるころの記憶がある人もいるぐらいだからさして特別なところはない。

よく指摘されるのは、人の顔と名前を覚えるのが早いことかもしれない。小さい頃は小学校の人・弟の同級生・保護者、先輩後輩、今ではジャニーズジュニアやタカラジェンヌという入れ替わりの激しいものの記憶が早いといわれる。しかし、これも決して無作為ではなく、EXILEは何度覚えようと思っても分からなくなってしまうので、選り好みはしているようだ。

後はど真面目な性格だと思う。小学校で先生が「○○は何ですか?」と聞いたとしたら、必ず答えなければならない。何故そうなるのかも含めて分かっている必要があるという内なる強制力が働き始めたことによる気がする。答えを知っている必要があるだとか理想の答えを用意せねばならないという強制概念は、ここ数年でだいぶ衰えてきたとはいえ私の人生に色濃く残っている。


それから、これが一番大きいと思うのだが、あまりにも「知りたい」という欲が強すぎる。

知識欲だとか知的探求心だとかいうと、ものすごく優秀な感じもして褒められる対象になりがちだが、そんな生半可なものではない。「知りたい」という欲に私の体が付いていけなくなることが何度も何度も起きている。原理がすとんと腑に落ちると衝動が収まり全停止する。

今でこそそれを言語化出来るが、唐突な欲求に抗えない私や「知りたい」という欲求を論理武装で社会に馴染ませて通してきた私の姿を見たことがある人は笑えないと思う。

勉学に関する知識欲だけならまだいい。人の感情、思考回路、思想その他人のことをとにかく知りたがる。宇宙の心理だとか建築の仕組みだとかは存外どうでもいいらしく、学問でいうところの人文科学が専門なのは今も昔も変わらない。中島敦の『山月記』を読んで震え上がるぐらいには、李徴の詩人になりたいと私の「知りたい」という欲求はあまりにも似通っている。私が虎になることは多分ないのだけれど、私という有象無象が集めた知識や記憶に飲み込まれて一体化してしまったらどうしようと思うことはある。身体を蝕まれている自覚はある。そうでもなきゃ、断捨離なんて言わない。

やはりもう少しの間人であるために、私は目に見えないモノを断捨離していく必要がある。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。