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「普通」に擬態する

今日の話は特にオチはない。今考えていることの経過を記しておく。後々に何か素材になるかもしれない。

私は型にはまれない。他意はなく、事実だ。

日本の多くの学生たちが、画一的な教育で普通を求められて個性がなくて量産型になってしまいがちでみたいな文脈、多くの人が一度は耳にしたことがあると思う。

私は、その逆だ。

私は社会の好奇な目にさらされるのがつらくて、何度も何度も自分でありたいと思いながら、同時に社会に擬態することに志を向けてきた。矛盾する私が生まれたのは、過去に全開の個性を受け入れてもらえなかったからだ。

あと、目立つことで追わされる責任を負いたくなかった。もう、私は自重で死にそうだというのに誰かの何かとして生きられるほどの覚悟がないのだ。そしてそれらを誰かに擦り付けるほどの軽さもない。一人で生き一人で死ぬだろうことは大分昔から知っている。

それでも「普通」を体験してみたかった。

それから、社会の片隅で息をしているぐらいの存在感でよかった。だからよくいる人に成りすました。

意見をどうぞ。思っていることを率直に。系の問いは、一番私の考える「普通」っぽい人の発言を聞いて、そのしばらく後に少しだけ言葉を変えて言うみたいな感じだ。無難に存在がばれないように目立たないようにしてきた。まあ、端的に言うと「普通」の芝居を繰り返していた。

私が考える「普通」であるから、いつか化けの皮ははがれる。偽物の「普通」が引きずり出され、私という語り手の異常性に気づかれてしまう前に立ち去ろうとしている。

しかし、最近どうにも新しいインプットが多くて余裕がないせいかそもそもの擬態の精度が低い。初手から好奇の目と初めて聞きましたという目と私という人物を消費する目が妙に気になる。悪意がなくても、興味関心の対象になるのは少しだけ疲れるのだ。

私が生きてきた世界は多分世の中の多くの人が通らない世界であるということは分かってる。もうその時点で「普通」とは縁遠い。結局それらを受け入れることも、突き放すことも出来なかった私が今の中途半端に傷ついている私だ。

こんなマニュアル通りではだめ。ありきたりじゃだめ。そんな言葉が発されるその奥で、ありきたりもマニュアルも知らない切り離された私がいる。


グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。