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結局はその人個人の意思という話。

整形ってなんなんだろう。時々そんな話題が食卓に上る。

私の意見は「個人の自由」もうそれに尽きるのだけれど、親子とか親しい友人がしていたらどう思うかとかそういう話が出る。繰り返しになるが、私はその人の自由だと思う。

私自身は自分の目があまり化粧映えしなくて本当に整形しようかぐらいまで悩んでいた時期があったのだけれど、年のせいか最近はわりとどうでも良くなった。確かに一重の涼しい目元には憧れるけど、別になれない。はい、終わり。っていう感じ。めちゃくちゃなりたくて仕方なくなる時も勿論あるけど、欲求が抑えられるレベルではある。欲求の抑え方はめちゃくちゃ独特で、何故今このタイミングでこの目元に成りたいと思ったかを考える。問題の細部を分析していくうちに誰かに可愛いって言われたかったとかなんかそういう根本が出てくるのでそれを叶えるようにしている。

父は整形の技術は事故とか必要に迫られた時にはあるべきだけど、いわゆる美容整形自体には反対なスタンス。お前はしないでねって言ってくる。まあ今の私はしないけど、十年前に言われたら絶対逆にしていたなって思う。でも言いたいことは分かる。親の顔とあまりに違うということは多分受け入れがたいんだろう。

私が美容整形に関して気になるというえば、底なしの欲求への折り合いのつけ方ってどういう感じ?っていうことぐらい。時代によって流行る顔も変わるし(平安美人の基準知ってる?)、出来る施術も増えるだろうし、そういうのとどう折り合い付けるのかは考えてからしたら?ってこと。食卓で全然誰にも刺さらなくて無視されたんだけど、気にならない?気にならないか…?

とある人と話していた時に、美容整形全然しなよ!めっちゃ歓迎!みたいなスタンスで来られた。いや、私にとってするかどうかはどうでもいいし顔でその人に対する見方を変えないからあれなんだけど、なんだかそのやりたいならやればというスタンスの軽さが結構気になってはいた。私も同じような新しいことはなんでもいいみたいな感じに見えているのかもしれないけれど、いつも責任のとれないことは言えないなあという気持ちがどこかにある。

多分整形だけじゃなくて、十年二十年前なら駄目とされる風潮が強かったものをやりなよと気軽に言えるようになったことはすごくいい。それ自体は全然問題じゃない。でも、自由なのがいいみたいな風潮に流されすぎというか、流された結果個人の意思がないなという感じが気になったりはする。なんでも古いものがダメで新しいものがいいんじゃないし、そのまた逆もしかり。

その人とか個人がどこの範囲を指すのか、分解するのはちょっと疲れるからいまはしないけど。そんな話。


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