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サーカスがほしい時

娯楽の質、エンターテインメントの質的なことを推しはかる視点は常に頭の片隅に置いている。

ただ作られたものを受けとるだけの人間になっていないか。という問いかけは数多くの楽しみがある現代においてものすごく重要なことだと思う。

基本的に私はこういう理由でこういうことを考えたいからあれを見たいとかいう感じで見る作品を選ぶ。

映像・舞台・文学・音楽その他全部そう。こういうところ理屈っぽくて偏屈だなあと思う。

惰性で作品を見始めたら、感性が死ぬような気がしていて、受け取るものが少ないなと思った時には作品の質はもちろん受け取る私の状態も省みるようにしている。体調が悪いから思ったように集中できない。とか仕事が多すぎて脳の意識が半分持っていかれている。とか私側の事情で受け取れないことも間々あるからだ。

そういうわけだから「サーカスが欲しい」と思うこともある。

自分の解釈のいらないぐらい慣らされたステレオタイプの娯楽の中で自我のとげを休めるような感覚に包まれたい時が偏屈な私にだってある。

主張が強すぎると酔っていけない。前衛的すぎると考えてしまう。

そういう時は語り手の分からないものを読むに限る。正確に言えば、語り手の名前が分からず、想像がつかず、考え方が透けてみえないもの。というべきか。

最近好きなのはTwitterのクソリプおじさんにまつわる一連のテンプレートとか美味しいものを紹介する流行のテンプレートとかそんな感じ。みんな同じ文法の中で泳ぐってすごいなあと思う。

それから質のいいサーカスの頂点、ディズニーに関する全て。勿論深読み出来ることもあるのは分かっているけれど、それをしなくてもいいように作られている辺りが最高品質のサーカスだなと思う。

「ダンボ」ってなんでダンボっていうか、知ってます?

一方で一時の快楽を求めていないか。というのは結構私の人生における重大なテーマだったりもする。

サーカスをねだる自分を抑制するような動きもするし、自分の欲求を無視して作品をぶつけることもある。

泣きたい時にみる作品がある人は分かってくれるかもしれない。泣きたいの部分にその時したい行動を入れて計算するようなイメージだ。

それを考えると、私はサーカスとパンと改題したほうがいいくらいにはエンターテインメントが日常なのだと思う。

ということは今が非日常なのかもしれない。


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