ずるいという感情
自分がやりたいけれど出来ないということに直面した時、人はずるいと口にするのだろう。
私の人生にはあまりなくて、それは「良い」と思ったら「やってみよう」の考えている時間がものすごく短いからだ。常識的に考えて無理そうなことを諦めるという常識がないともいう。考えていないわけではないのだが、私が認識している私より実際の私は決断が早い。
もしくは憧憬に昇華するのがとてもうまい。神格化されたものに対して人はあまり「ずるい」とは思わないのではないか。
◇
それでも一つだけずるいと思っていることがあって、「人生のことを当たり前のように行えるのはすごくずるい」ということだ。
人生が何のためにあって、私がどう生きるか、何のために生きるかと思案している間に私は死ぬと思っているからだ。
考えなくても生きることが出来る人に関しては「憧憬」ではなく「ずるい」という感情を抱く。私には出来るわけがないし、うらやましいなあということは思ってもそうなりたいわけではない中途半端な思いが私を「ずるい」という気持ちにさせる。
具体的に誰かを想定しているわけではない。
でもこんなに生きるために世の中全部の人間が思考しているとは到底思えなくて、見えない誰かに「ずるい」という感情を持っている。
何者にもなれず、何の真理を見出すことも出来ないで死ぬという絶望にも似た思いを感じなくていいというのはやっぱり「ずるい」
◇
感性とか天性とかそういうものに恵まれる人もいるだろうけど、結局大体のことは努力※でなんとかできるという極端な考えが私を「ずるい」から解放しているのかもしれない。
※「努力は必ず報われる」みたいな根性論ではなく、適切な向上のことをさしている。
グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。