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「この人」と「この街」で話をした時のことを私はデートと名付けよう。

初めてデートをしたときのことを、あなたは覚えているだろうか。

私はこの堅苦しい文体に似合わず、結構カジュアルにこの言葉を使う。それは単純に女子校育ちだからだと思う。同性と二人で特別なお出かけをすることもデートという言葉で表現してしまうまま大人になってしまった。

記憶に残ればその名称は何だっていい。そのおおざっぱで曖昧な感じがよく表れているともいえる。それでも私が初めてのデートだと思う瞬間は多分この先同じ光景だ。

人の顔までは全然記憶になくても、行ったところとか光景はなんとなく覚えていたりもする。友人の誰かだったら写真を見返せばいいのだけれど、そうじゃない場合は行ったような気がするなあという漠然とした思い出をなんとなく抱えるか、すっかりさっぱり忘れてしまうに限る。それからこのご時世に写真を撮り忘れたり、データをすっ飛ばしたりするから私は自分の記憶を頼るしかないのだ。

「この人」といったどこかが記憶に残る人と誰かといった「この街」が記憶に残る人というのがある気がする。その違いがどこにあるのか上手い言葉が思いつかないのだけれど、前者にカテゴライズされる人はやっぱりそれなりに私と深いかかわりがあるかその時だけでもめちゃくちゃ情熱を傾けた人なんだなあということは分かる。その瞬間には分からなくても、振り返ると覚えている景色が全然違うものだから記憶は正直だなあと思ったりもする。

両方が運よく重なった中で、人と二人で出かけたものの最初の記憶というと私の中では学生時代にディズニーシーが最初の光景だと思う。何故ディズニーシーに二人で行こうと思ったのかはもう忘れてしまった。ジェットコースターに乗れないことは今も昔も変わらないから、絶対私が言い出したんじゃないと思っているが真相は分からない。先日も動物が好きではないのに行先に水族館をリクエストするという謎の行動に出た私のことだから、その時の衝動的な理由は知る由もない。

アリエルの薄暗い列のところで、メールチェックをしていたら、「今日は私のために時間を使って欲しい」というようなことをいわれた。もっと違う言葉遣いで、もっと鮮明に覚えているのだけれど、それをそのまま書く気にはなれないので私の言葉での記録にしておこう。

ただそのことだけを覚えている。

表情も使っていた携帯電話も曖昧でその人と空間だけは確かに記憶にある。この言葉の意味はその後しばらく私の中で分からなくて、いつからかそれがメールの相手であったその時の私が一番可愛がっていた後輩に気を取られているということへの「嫉妬」だったのかもしれないと思うことにした。
もしかしたらあったことを忘れているだけかもしれないが、私はこれ以外に私に向けられる「嫉妬」に出会ったことがないので、それが「嫉妬」であっても「嫉妬」でなくても、情の湿っぽさみたいな感覚の原点がここにあることは変わりない。

それからわたしのまな板のような体型を、「細くていいね」と抱きしめて褒めてくれたのは、今でもそのままの体型でいる一つの理由かもしれない。
流石に全てじゃないし、まったくそのままでもないし、着たい服がいっぱいあるし、体の重みに敏感だからとかそういう健康上の理由もあるのだけれど、ちょっとした引っ掛かりの一つではある気がする。

本当に昔の思い出話をした。明日からの旅行に気が向かないから昔話をしたのだ。旅行をするという情熱を私が保っていられるのは長くて1か月だということを私はそろそろ学習したほうがいい。先のことを楽しみするという情熱がどうにも持たないのだ。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。