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模写と憧れの思い出話

それぞれの人の、それぞれの生き方が、文字になってまとまりになっていくときに、その人の頭の中をぐるぐると廻った結果が文章になる。

じゃあどうやって書き方を覚えたのかというと、自然に生み出されたという「才」の持ち主もいらっしゃるかもしれないが、私の場合は模写だ。丸ごと真似をしていくうちに、特徴を掴んでいく。話の構成の仕方とかそういう感じのものを学んで、そこに新たに学んだ言葉を使ってちょっと自分らしいものを書こうとかそういう意志を持ってみる。なので、自分の文章はありきたりなところがまあまあいいところだと結構本気で思っていた。

私の模写の能力は多分結構すごい。文章は結果的に独自性が強くなってしまったけれど、鉛筆で書く文字と踊り方は完璧に他人の模写である。とはいっても、模写した相手がその時と違う文字の書き方や踊り方をするようになって仕舞っているから、一定期間でしかそっくりではないのだけれど、本当にそっくりだったことがある。文字の話はすでにしていたので踊り方の話をしよう。

踊り方というのは体中の筋肉の使い方や体型まで似ていないと似ないものなので、私は過去の自分の執念というか努力というか集中力というのかを、良いか悪いかの判断はともかくとして、すごいと思っている。立っている姿をそっくりといわれることもあれば、踊っている姿を取り違えられたこともある。相手にとっては今思えば迷惑だったのかもしれないが、「憧れ」を伝えていたこともあってか割とそのコミュニティでは反論されることはなかったと思う。私が思っているだけかもしれないが。

録画した映像なんかでみると同じ衣裳の集団の中に同じ人がいるみたいですごく見分けがつかなくなる。当時は自分が踊っている場所を覚えていたから分かっていたけれど、今の私はすっかり忘れてしまって、自分がどちらか若干あやしい。それぐらい特徴は掴んでいるし、似ている。

私という存在はシンプルに我が強いので、まず自分の知らない、無の領域でなければ真似は難しい。その上で取り込んでいく。だから純度が高く真似が出来ると思うし、まぜこぜに上書きしないでいれば、その時のそのままを自分の中に押しとどめて時折取り出しては眺めることも出来る。そのうちに、模写した相手が変わってしまったりしていると、妙に悲しいような寂しいような気持ちに襲われたりもする。自分だってその頃には別の書き方や踊り方をしているくせに、自分勝手に寂しがる。自我が強いくせに真似することにはまる私こそ矛盾だらけなのかもしれない。

私も真似をする側もされる側も経験してみたら、模写する能力自体のことも色々考えるのだけれど、「憧れ」がよいものだけでないことは何となくわかってきた。「憧れ」は時に人を追い詰めることもあるのだ。あの人が変わってしまったのではなく、自分もどこかで変わっているのだとそう言い聞かせるようにしている。


グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。