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第18話 嘘

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前話 目次

 60、と明るく声が響いた。
 どこか遠くの世界で起こっている出来事のようだった。けたたましい警報音に、フロアを舐めつくす火の海。そしてこの、あまりにも和やかな機械音。59、と読み上げられる。58、57、56……と続いていく。
 僕は呆然と白い壁を見つめていた。
 思えばとっくに壊れかけていた。両目は塞がれて血の涙を垂れていた。顎の肉も削がれて白い骨が露出していた。髪も焼け、黒くちぢれていた。
 ほとんど人の姿を失いかけていた。
 そんな異形になってまで、追いかけてきてくれた友に僕はなんと言った。
 ぴくりと指先が震えるのを感じた。アザカが渡してくれた鉄の棒は、まだ、しっくりと手のひらに吸い付いていた。
 僕はぼんやりと立ち上がった。
 47、と人の声が響いた。46、45、44……と続いていく。
 パイプを握る指先に力を込めて、白い壁に突きたてた。どうしてか、冬が来る前のレアルタイの村を思い出していた。ああそうだ、側溝を埋めなければと思っていたのだ。シャベルで。そう穴を掘るのと同じ要領で、このまま鉄棒の先端を一息に壁にねじ込めば、こじ開けることができるのではないか。鳩尾に棒の片端をあてがい、体重をかけた。
 忘れかけていた鋭い痛みが足首に走った。コンパスの針が抜けた傷跡。
 意識が朦朧とする。
 突然、どごりと濁った音が背後から轟いた。遅れて凄まじい爆風に背中を押された。鳩尾にあてていた鉄棒の先端が、内臓にめり込んだ。
 吐いた。
 灼熱した鉄の床に、ぼたぼたと胃液が落ちた。生々しい臭いが揮発し、おまえは、おまえだけがまだ生きていると告げてきた。
 からんと乾いた音を立てて、折れたパイプが転がった。今のが限界だったらしい。負荷に耐え切れなかったのだ。
 32、と人の声が響いた。31、30、29……と続いていく。
「――う」
 足が、その場に座り込んでいた。
 急に全ての音が明瞭に聞こえた。警報音は鳴り止まない。直ちに脱出しろと、この地獄にはおよそ似つかわしくない朗らかな声で、繰り返し、繰り返し告げている。そこへ不気味な秒読みが重なっている。あと20秒ほどで何かが起きるらしい。そういえばゾフは何を建造していたのだろう。ライラの亡霊は移民船と言っていたけれど、最後まで分からずじまいだった。
 ふと視線を滑らせると、親友を詰る原因となった白骨が、いつのまにか僕のすぐ隣に、寄り添うように横たわっていた。
 僕はおそるおそる、真っ赤な遺髪を撫でた。
 形の良い頭蓋骨。頬骨。鎖骨。ここが胸、それから……
 人さし指で、腕の骨を撫でるように伝っていき、最後に、かろうじて残っていた指先の断片をそっとつまんだ。
 10、と人の声が響いた。
 9、8、7……
「死にたいのか」
 え、と顔を上げた。そのまま硬直した。
 白い壁の前に立ちはだかるように、黒い男が傲岸と僕を見下ろしていた。黒い男。そうとしか形容のしようがなかった。また、亡霊でも見たのかと思った。男は霧のように漂っていた。いいや黒装束の裾がぼろぼろに擦り切れ、火の粉に蝕まれ、ちりちりと生き物のようにうねっていた。
 顔は、焼けただれていて分からない。
 6、と人の声が響いた。5、と続く数字に、異形の男の声が重なった。
「パーニャは、おまえが死ぬことを望みはすまい」
「……え?」
 男が、僕の前に屈みこんだ。異常なほどの大男に見えたけれど、それは僕が膝をついていたからで、実際は僕よりも小柄な老人だった。それより、この声をどこかで聞いた気がするのだけれど。誰だろう。分からない。
 じっと瞳を見つめた。
 ――黒い。
 髪も、かつては黒かったのだろう。白髪の根元が黒い。
 その髪と瞳の間を、つまり眉間を、縫うように血が流れ続けている。ぬっと、男が手を差し出した。無骨な手だ。あちこちに傷が膿み、血管は蚯蚓のように膨れ上がっている。その手で、急に僕を包むように、
「――――」
 4、と人の声が響いた。3、と止まることなく続いていく。
 僕は弾かれたように顔を上げた。
 彼なら、助けてくれるのではないか。
 厚い壁の一つや二つ、穿ってくれるのではないか。この出鱈目な男なら、もう一度ヴォルトと話をする機会をあるいは、
「――ガサ――」
 鍛え上げられた強靭な筋肉が、僕に覆い被さった。違う。悔しさのあまり叫んだ。僕じゃない。白い壁が遠ざかっていく。ガサイの黒い装束が僕の視界を塞ぎ、白を真っ黒に塗り潰していく。そこにいるのに。
 ヴォルトが、まだ、壁の向こうにいるのに。
 助けてほしいのは僕じゃなくて、
 2、 と人の声が響いた。
 爆風から、あるいはこの世のあらゆる悲しみから、守り抜いてくれようと、老人は地に伏せた。

***










 瓦礫の表面の水たまりは、一連の惨劇からは想像もつかないほどに透きとおっていた。
 その透明さから、自分がどれほどの時を無為に過ごしたのかを知った。
 もう少し濁っていたり、埃臭さや煙臭さが残っていれば、あるいはヴォルトを、ガサイを、捜すために起き上がろうという気にもなれたのだろうか。
 地面に横たわったまま見上げた空は、何かの冗談のように青く澄み渡っていた。
 あれから何日が経ったのだろう。
 眠い。
 もう一度、眠ってしまおうか。起きてもやることなんて一つもないのだし。そう思うと、雨はとっくに止んでいるはずなのに、一滴、また一滴と、何かが頬を濡らしていくのを感じた。ちょうど僕のすぐ斜向かいに、崩落した金属の庇(ひさし)があり、そこに溜まった雨水が滴り落ちているようだった。
 ふと、どこからか、からかうような笑い声が聞こえた。
 僕は横たわったまま、目だけで声の主を探した。主はすぐに見つかった。雨水の垂れていた庇のすぐ真上だ。ちょうど太陽の光を背負うように、庇の先端にしゃがみ込んでいた。
 いつだったか、まるで悪びれたところなく、ライラの墓石に腰掛けていたあのときと同じように。
「酷いものですね」
 クルムホルムは言うと、ぱっと庇から飛び降りた。飛び降りるとき、白い粉のようなものが舞った。そういえば僕の周りにも、やたらと白い砂が堆積していた。あの爆発で黒く木っ端になったものは多かったけれど、どうしてここだけは白いのだろう。
 クルムホルムは足音ひとつ立てず、僕の隣にふわりと着地した。それから右を見、左を見、椅子になるものがないと知れると、汚れることも厭わずあっさりその場に膝をついた。しゃなり、と、やっと砂が鳴く音がした。数ヶ月前と全く変わらないローブ姿は、この陽射しの下では野暮ったい。本人もそう感じたのか、勿体つけるようにフードを外した。
 下に現れたのは、目の醒めるような赤髪だった。
 時を忘れて、僕は見惚れた。
 クルムホルムは困ったように眉を下げた。どこかで見た表情だと思った。ぐっとおかしみをこらえているようにも、言い知れぬ悲しみをたたえているようにも見える、不思議な包容力をもった顔。
 言った。
「本当に。まったく、いいざまです」
 僕はどう応えればいいか分からずに唇を閉ざした。
 仕方がないから空を見上げた。いつのまに流れてきたのか、帆船のように大きな雲が、ゆったりと頭上に差し掛かったところだった。ふっと太陽の光が遮られ、僕たちは影に落ちた。おかげで眩しさがやわらいだ。
 訪れた薄闇のおかげで、初めて視認することができた。
 クルムホルムの瞳は、まるでその向こうに遥かな銀河でも内包しているかのように、淡く、穏やかな光を放ち続けていた。
 クルムホルムは形容しがたかった表情をふっとほどくと、今度ははっきりと微笑した。
「私たちは、竜と呼ばれています」
 僕はじっとクルムホルムの瞳を覗き返した。その名乗りにどのような意味があるのか分からないまま、ただ口の中で、リュウ、とささやかれた響きを転がした。肉声には出さなかった。けれどクルムホルムは、自分が呼ばれたことがさも嬉しかったように、もう何十年も人に呼ばれることなどなかったかのように、深く頷いた。
「地域によって異称はあるが――ありますが。この世界では、初めて私の仲間に会った東方の民族が、『理由(リユウ)』と呼び始めたことが始まりです。レティシアの持つ古い書物――おまえは確か《禁書》と呼んでいましたか。あれにも記載されていたのですが、気づかなかったのですね」
 僕はかすかに目を見開いた。
 ほんの一瞬前まで、まだどこか、夢を見ているような心地でいたのだ。
 何もかもが終わってしまったと信じていた世界の中で、急に、見知った人間の名前を聞かされた。そのせいでにわかに現実味が立ち戻ってきた。
 ――《禁書》だと。
 その言い方ではまるで、僕たちの旅路を余さず見てきたようではないか。
 不安定に揺れる心を抑えながら、僕は聞いた。
「……レアを? 知っている?」
「知っているも何も、」
 クルムホルムは肩をすくめた。
「私の娘です。仲良くしてくれてありがとうございました」
 いよいよ僕は身を起こした。
 といっても起こせたのは途中までだった。腹筋を始めとする体中の筋肉が悲鳴を上げ、とてもではないけれど立ち上がるのは無理だった。
 痛みのせいで、自分はまだ生きているということを寒々と思い出した。
 中途半端に地面によろめき、とっさに肘をついた。それでもなんとか半身を捻り、クルムホルムに向き合い、凝視した。
「……娘?」
「ええ。あの娘は、この世界で《神も同然》の地位にいたはずです」
 一度は死に体となりかけた心が、不穏に振幅を取り戻していくのを感じた。
 クルムホルムはローブ姿で足を崩し、あぐらをかくと、首だけをのんびりと空に向けた。
「ここは面白い世界です。年端もいかない少女が、なんの後ろ盾もなく政治を執れるはずがないと、誰もが心の底でそう蔑んでいるのに。けれど一方で、おまえたちがもっとも神性を感じる姿も少女のそれだ。矛盾、いつ壊れてもおかしくない論理の破綻。危うく、愚かで、そして縋るような希望に満ちている。だから私は、レティシアを今の姿に創ることに決めました」
 茫然と、僕はクルムホルムの弁を繰り返した。
「……つくる?」
「自分の手で終わらせるのは、もうこりごりだったので」
 人の心を見通すクルムホルムは、しかし人には決して伝わらない謎懸けのような答えを残し、空に向けていた顔を、地平に向けて戻して始めた。
「レティシアは私の分身です。フラムスティードが神格化されていたは、神の血を引いていたのだから当然の理です。もっとも、人間はそのことを忘れてしまいましたし、レティシア自身にも記憶はありません。今さら、その自覚を持つ必要もない。なぜならば終わるからです。おまえが証明してくれた式のおかげで、フラムスティードは地に堕ちる」
 クルムホルムは、空から大地へと、一定の速度で美しい放物線を描いていた視線を、やがて静かに僕に定めた。
「もう、神がこの地にいる必要もなくなる」
 自分でも呆れるほど遅いけれど、このとき、僕はようやく理解した。
 どこかで見た表情だと思ったのは、目だ。
 泣いているようにも、笑っているようにも見える。当然だ。今、こうしてやるせない現実を突きつけられ、戸惑っている間にも、それは変化し続けていくのだから。
 ひとときも同じ地にとどまることなく。
 さっき天満星を映し込んで輝いていたはずの瞳孔が、今は青々と、頭上の清爽な広がりを吸い込んだかのように澄み渡っている。
 瞳の中で、帆船のように大きな雲が、順風に吹かれて横切っていく。
 神であるクルムホルムの瞳は、人の心を映さない。
 代わりに、人が仰ぎ見る空を映している。
「レティシアには気の毒ですが。なにせあの娘は、自分は世界を救うものと信じていたのだから。まさか自分が、その逆の人殺しのために奔走させられていたなどとは夢にも――」
 言いかけて、何かおかしいことでも思い出したのか、クルムホルムは小さく微笑し、それから目を伏せた。
「夢にも、思わなかったでしょう」
 僕は意味が分からずにかぶりを振った。
 クルムホルムは首を傾げた。
「ですから、おまえをここまで案内したのはレティシアです。7人を見殺すよう誘導し、たった一人の友を裏切らせ、絶望の中で死んでいくよう至らしめた。レティシアが。つまり私が」
 絶句した僕に、クルムホルムは不思議そうに目をしばたたく。
「忘れたのか。おまえが私に尋ねたのだ。『誰を見捨てればライラは生き返るのか』と。私は、私が、与えてやった。おまえの辿ってきた傍らに、レティシアを置いて」
「――――」
 予感が、蝕むように体中に染みていった。
 もしも自分が傷を負っていなければ、きっと後ずさっていたことだろう。けれど生憎、右足首には父のコンパスに貫かれた痕が膿んでいた。醜く膨れ上がった片足は、もう己の重さすら支えることができないようだった。クルムホルムは壊死した僕の足をじっと見下ろしながら、言った。
「おまえが自らは何もせず、何も選び取らず、何にも責任を負わず、ただ死んでいく人間を尻目に進んでいけばそれでいいように、レティシアを用意してやった。請われるままに。だから、あの娘は導いた。死すべき人間のもとへ」
 コンパスの針で、と。
 逃げられない僕の耳元まで唇を運び、ひそやかに言い添えた。
 全身から汗が噴き出した。喉が焼け付き、目の前が赤く染め上がった。自分がまだあの火の海をさまよっているような錯覚に襲われた。
「思い出せ。レティシアは、《禁書》を奪って逃げただろう」
 混乱したまま顔を上げた。
 クルムホルムの青く透きとおった双眸が、間近から僕を捉えていた。
「おまえが、兄弟子であるロベルトを見捨てた間際の話だ。あのときレティシアは、《禁書》を掻き抱いて逃げた。おまえの目には『守っている』ように見えたようだがそれは間違いだ。あの書物にはおまえの父イサークの証明が記されていた。神は死ぬという証明だ。人間が、明日から何を信じて生きていけばいいのか分からなくなるだけの、ためらいだ。おまえの兄弟子は、証明の潜在的な恐ろしさに気づいていた。しかし数字に魅了され捨てることができずに、保管した。保管場所として選ばれたのがあの禁書だ。わずか一冊に何万という書物が格納されていたのは、全て証明から人の目を遠ざけるための偽装だ。そんなものをレティシアはベルヌイから《持ち去った》。分かるか?」
「――――」
 喉の奥から木枯らしのような吐息が漏れた。
 予感で済んでくれればいいと痛切に願った。けれどクルムホルムは、人の感情を慮るようなことはしなかった。
「おまえは兄弟子たるロベルトが、おまえの父を、善なる民を殺したと憂えていたようだがそれは間違いだ。イサークは世界の敵だった。おまえも同罪だ。しかしロベルトは幼いおまえを殺すことができず、無実の罪を着せて追放した」
 クルムホルムは、不意に白い指先を左右に振って見せた。指揮を執っているようにも、糸を紡いでいるようにも見えるその奇妙な仕草は、ただひたすらに心を掻き乱した。
 そうして不可解な拍を刻みながら、述懐した。
「この皮肉な顛末を、ロベルトは口の下手な人間だったから告げずに死んだ。クジラに喰われて。クジラを飼い馴らしていたのが誰か思い出せるか?」
 気が狂いそうな痛みが、爪先から腿にかけて駆け抜けた。
 脚が縦に裂けたのではと思うような激痛だった。あまりの急襲にとっさに患部を掴んでしまい、かえって目を剥いた。身悶えながら下を見やると、いつのまにかコンパスで貫かれた痕に、氷のように透きとおった青い鎖が通っていた。その先端は錆びた杭へと繋がれ、僕は地面に縫い付けられていた。
 震える歯を食い縛ってクルムホルムに視線を移すと、二つの凪いだ空が、やはりまっすぐに僕を見据えていた。
「他の6人も同じだ。クジラがロベルトを喰った、おまえはフラムスティードへ逃げた。フラムスティードへの水脈を逃走路に使おうと提案したのは誰だ。フラムスティードでクジラが死んだ、おまえはエトリへ逃げた。同行したガサイは誰の付き人だった。エトリでおまえはパーニャと死に別れ、ルドへの列車に飛び乗った。列車の手配をしたのは誰だ。ルドでおまえはゾフに出会い、政治取引の条件として因縁の証明と向き合わざるをえなくなった。誰の手引きだった。もうこれ以上は言う必要もない。おまえの友を刺し殺したのが誰であったか、おまえはその目で見てきているのだから。もう一度聞く。思い出したか」
 痛みの中で、数え切れないほどの不孝を思い出した。――思い出すも何も。
 忘れた日など。
 クルムホルムは頷いた。
「これからもずっと覚えていてください。おまえは竜の伴侶となるのだから」
 痛みが消え去った。
 体が軽くなり、ふわりと浮かぶような心地良さを感じた。いつのまにか、脚を縫い付けていた鎖が断ち切られて消えていた。あるいは最初から、そんなものなどなかったかのように。こわごわと傷口に手を触れると、足首は青黒く膿んでいるだけだった。その壊疽を見るにつけ、ふと、妙なことを思い出した。
 切り落とさなければだめかもしれない。
 そういえば故郷のエルシャおばさんは、あの美しい脚を切断したのだろうか。
 ライラを育てた、体の一部を。
「レティシア」
 クルムホルムが、名前を呼んだ。
 僕は慌てて顔を上げた。クルムホルムは僕を放置して立ち上がると、そのまま一歩下がり、見えない誰かの肩を抱いて、そっと前に押し出すような仕草をした。すると周囲に堆積していたあの白い砂が、一斉に微細に震えはじめ、やがて頸木を外されたように勢いよく空へと舞い上がった。
 ちり、と指先が痛んだ。こわごわと視線を落とすと、僕の爪の間にも一粒、合流のためにもがき抜けだそうと白い砂が蠢いていた。思わず悲鳴を上げて振り払った。砂は僕の爪を食い破り、クルムホルムが肩を抱く見えない誰か目がけて跳んでいった。
 そうしてやがて一塊に凝縮し、おぼろに輪郭を為していった。
「――っ……」
 砂から、声が発せられた。
 身震いした。聞き覚えのある声だった。
 人の形を象りはじめた砂は、今度はみるみる鮮やかに色づいていった。ざらついた表面が均され、陶器のようにきめ細やかにきらめき始めた。――陶器。連想した喩えに、思わず口許を押さえた。あの肌の、人間離れした美しさは、つまりそういうことだったのか。まるで血が通い始めたかのようにうっすらと汗ばんだそれは、砂が固まる際に吸い上げた雨水だ。さっきまで水たまりが映し込んでいた陽の光ごと、精巧になぞらえたかのように瑞々しく輝いている。
 そうして現れたのは、レティシアではなく。
「……ライ、ラ……?」
 慄然と呟いた僕に、すかさずクルムホルムが応じた。
「正解です。半分は不正解です、」
 創造主の言葉を継ぐように、ライラの、いいやライラに瓜二つの誰かの姿は、みるみる変容していった。
 まず、髪の色素が抜け落ちた。
 真っ赤だった髪はほとんど白に近いほど透きとおり、その結果、陽の光を翳すと落ちつきの感じられる、格調高いローズブロンドへと生まれ変わった。次いで、目の色が異変を来たした。茶褐色に近かった、自然体の、素朴で人間らしい瞳が、彼女が何かに打たれたように震え空を見上げた瞬間、まるで通りがかった雲をそのまま吸い尽くしたかのように、非現実的な青灰一色へと染め抜かれた。
 そうして改めて向き合うと、よく知っている人物が出来上がった。
 一糸纏わぬ美しい少女の肩を、クルムホルムはやさしく抱き、耳元で囁いた。
「レティシア?」
 少女は――それがまさか、僕の知っているあのレアなのかは判然としない、けれどとにかくレティシアと名前だけはそう呼ばれた少女は、疲れ果てたようにうっすらと顔を上げた。じっとクルムホルムの瞳を覗き込み、悄然と呟いた。
「……お姉さま?」
 胸を抉られる思いがした。
 クルムホルムを、自分の姉と間違えた。
 レティシアがクルムホルムの分身だというのなら、その双子の姉であったスフィリアも同じ素性であったはずだ。
 ――素性。
 人の形を模した、かくも精巧な少女たちを、かの神はいったい何から産み出したというのか。
 いつのまにか僕の周りからは、あの白い砂が消えていた。
 クルムホルムは愛おしそうに目を細めると、起きたばかりのレアに語りかけた。
「可哀相だけれど、スフィリアは死んだよ。私との約束を破ったからね」
「……約束……?」
「そう。約束は守らなければいけない」
 クルムホルムは、今にも倒れ込みそうなレアを抱きとめたまま、しどけなく頬に指を這わせ、慈しむように額をつけた。
 とたん、レアがのけぞった。とても同じ喉から発せられたとは思えないおぞましい叫び声を上げて、がくがくと痙攣し始めた。
 何をしている。即座に抗議の声を上げようとした、けれど形だけの正義を見越したように、クルムホルムは冷ややかに機先を制した。
「記憶が戻らなくてもいいのか」
「……は?」
「私は、おまえとの約束を守ろうとしているだけだ――ですよ。7人の最後を見届けてくれたおまえが、代償として望むものを与えようとしている」
「何を――だから、その娘は、」
 違うだろう。
 とっさにそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 ――僕が、望んでいたもの。

 刹那、レアの口から身震いするような艶やかな嬌声が上がった。
 僕は金縛りにあったように硬直した。
 こんなときに、いいやこんなときだからこそ、誰であれ血が沸き立つような声音だった。否応なく思考が断絶させられた。僕は声の主を凝視した。もちろんそこにはレアがいた。クルムホルムの腕から崩れ落ち、裸で、逃げるように地に這い蹲り、もどかしそうに自身の体を掻き抱いていた。
 そうでもしないと、宙に霧散して消えてしまうのだとでもいうように。
「……どうして……」
 呟かれた自分の声が、ひどく場違いに聞こえた。
 レアはなおも悶えていた。見開かれた両眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。助けを求めるように、あるいは酸素を求めるように、喘ぎ続ける口から、一筋、透明の液が垂れた。
 ――だって、彼女は。
 のたうちまわるレアの髪が、ほのかに燐光し始めた。淡い桜色は、みるまに真っ赤に燃え盛り、かと思えばまた急速に色が抜け落ち、透明に澄み渡り、けれどすぐさま猛然と明るさを取り戻し、赤々と豪奢な輝きを放ち、うねり、舞い、そうした明滅を繰り返し、繰り返しながら、レアは泣いていた。
 泣いているように見えた。
 ――だって、この涙は雨なのだろう……?
 異なる髪色を往復するたび、連動して体も、心も、まるで人格さえも、真っ二つに裂かれているかのように、聞くに堪えない悲鳴が上がり続けた。
 その悲鳴が。
 泣き声が。
「――――」
 口調が違うからか。高さが違うからか。
 それとも、宿った魂が違うから。
 いいやそんなはずはない、あってはならないと、思う心が聞き逃したのか。
 聞き逃していたのか。ずっと。
「三度目です」
 クルムホルムは言った。
「《思い出しましたか》。おまえが、掘り起こすのを手伝ってくれたのですよ」
 僕は弾かれたように顔を上げた。
 初めて、心底からクルムホルムと対峙した。
 そこにはかすかに翳りを帯びた、青灰の瞳が凪いでいた。
「忘れたくなる気持ちも解りますが」
 言葉とは裏腹に、同情の一片すらも感じさせず、クルムホルムはただ無表情にレアを見下ろした。そしていたずらに脇腹をこつんと蹴飛ばした。レアは身体をくの字に折って絶叫した。鼓膜を引き千切るような叫びだった。その声に、悲鳴に、掻き消されてもおかしくないはずなのに、どうしてかクルムホルムの言葉だけが、まるで心臓の皮を剥いで直接刻み込んでくるかのように、一音一音、はっきりと聞き取れた。
 痛いほどに。
「忘れたくなる気持ちも解りますが、しかし実際、こうも簡単に忘れられると腹が立つものですね。そうやって簡単に心を守ることができて、羨ましいやら。痛ましいやら」
 懐かしいやら、と。
 クルムホルムはそう言い捨てて、こきりと首を鳴らした。その仕草ばかりが、嫌味なほど僕たちの慣習をなぞらえていた。
「忘れてしまったのならば。もういいか、このままでも」
「……っ?」
「気づいているのだろう、おまえはもう。レティシアの材料はライラの死体です。粉々にし、雨と土で練り直し、そこに竜の翼の一枚を埋め込んで魂の代わりと為しました」
 さらりと言ってから、ああそういえば、と無垢に首を傾げた。
「最初にちゃんと伝えた、私は。おまえも聞いていました。《すっかり元どおりとまではいかないかもしれませんが》、存在しないよりはましでしょう」
 何を、言っているのだろう。
 けれど心のどこかは、とうに受け容れる準備を重ねていたかのように、きちりと音を立てて細い細い隙間が開いた。その薄暗い隙間の向こう側から、誰かの腕が生えてきた。腕は隙間に指をかけた。鬱血するほど強く爪を立てて、中から闇を押し広げようとしていた。
「思い出しましたか」
 クルムホルムは繰り返した。それだけでは埒が明かぬと判断したのか、あ、ああ、と丁寧に喉の調子を整える素振りを見せ、
「『都合よく、私のために何かを捨てたなんて思わないで。勝手に美談に置き換えないで。あなたは被害者ではないし、ましてや加害者でもない。あなたの周りで6人もの人が亡くなったのは、ただの偶然。ただの不幸だよ』」
 と。
 淀みなく言った。
 隙間にかけられた誰かの指先が、ぱきん、と音を弾かせた。
 クルムホルムの唇から発せられたのは、どう聞いても、どう思い出しても、一語一句違わず、あのとき、あの火の海で、ライラの亡霊が僕を慰めるためにかけてくれた言葉だと。
 そう、信じていたのだけれど。
「あれは私だ――ですよ。レティシアの身体を借りて、つまりライラの死体を借りて、私が演じました。よく似ていたでしょう。似ているも何も本人の体だから当然でした。もっとも体と言いましても、本体はもう粉々に腐ってしまっていたから借りるのも一苦労でした。剥がれてしまったり。あのときも上手く着ることができず、肉だけを霧状にまとうしかなく、おまえの手をすり抜けてしまいました。だから骨だけがヴォルトの腕の中に残っていました」
 ぱきん、と音を弾かせた誰かの指先から、何かが落下した。僕は俯いて足下に着地したそれを見た。……爪だ。爪が剥がれ落ちた。
 ぽつ、ぽつ、と血の雨が、後を追うように落ちていく。
「普通ならこんなことは起きません。けれどライラは執念深い身体でした、拒絶反応が出てしまった。よほど自分の肉体を好きにされるのが気に喰わなかったのでしょう。埋め込んだ翼を弾き出そうとひどく抵抗されて、結果的にレティシアのほうが分離し、表に出てきてしまった」
 それでこのざまです、と。
 クルムホルムは、再びレティシアを蹴飛ばした。
 ライラの遺体を。
「……やめろ」
「やめてほしいのは私だ。人間に感化されるなど」
 クルムホルムは、まるで自分が被害者であるかのように俯き、ふいと口をつぐんだ。その瞬間だけ、神であるはずの、遠くこの手の及ばないはずの存在が、誰かが抱きしめてやらないと消えてしまいそうなほど小さく見えた。
「これではもう飛べない」
 呟いた。
 瞬間、雲間から気まぐれに射した光が、クルムホルムの横顔を浮かび上がらせた。
 老人のような顔をしていた。
 忌々しげで、やるせなく、何かが愛しくてたまらないのに、それがなんなのかを忘れてしまったような、とらえどころのない顔をしていた。けれど雲が過ぎ行き射し込む光の角度が変わったとたん、拗ねた幼子のようにあどけなく見えた。そして再び雲がかかると、戦場で死んだ夫を偲ぶ女のように沈み込んだ。
 どうあれそれは、人間の顔だった。
 クルムホルムは言った。
「地上に恋をした翼はもう飛べない。置いていくしかない。その屈辱が、悲劇が、おまえに分かるものか」
 分からない。
 分かるはずがないだろう。
 隙間から血を滴らせる誰かの指先を見て、もう書けないな、と思った。
 もう数式は書けない。
 あんなに、ライラが褒めてくれたのに。
「……返してくれ」
 気づけば呟いていた。
 クルムホルムは、じっと僕を見返した。ややあってから醜悪に頬を歪めた。
 せせら笑っていたのだと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
「私は言った。それは、差し上げたものだ。それに元々、おまえの婚約者(もの)だったのだろう?」
 僕は唇を引き結んだ。――違う。
 僕の思いを裏付けるかのように、レアが掠れ声をあげた。
 ヴォルト、と。
 身をよじりながら。
 クルムホルムは、これ以上は付き合いきれないとでも言いたげに口をつぐんだ。いつまでも裸でいるレアを、今さら気の毒に思ったわけでもないだろうに、自分の羽織っていたローブの襟元に手をかけ、ボタンを外した。
 そしてレアの背中の上に落とした。
 落とした。言葉のままに。かけてやったのではなく、不要になったものを地面に捨てたら、たまたまそこにレアが這っていた。
 ローブを脱いだクルムホルムは、貴族の青年のような服装をしていた。
 神を自称するくらいだから、僕はどこか、浮世離れしたぼろぼろの旅人のような風体を想像していた。けれどローブの下に現れたのは、細身のベストに優雅にタイを締めた、アカデメイアに籍を置いていても不思議でないような、学生然とした気安さだった。昨日までごく当たり前に屋敷で使用人と暮らしていたはずなのに、なんの因果でこんな場所に来てしまったのかと、そういう物語を想像してしまうような。
 似合わなかった。
 赤い髪ばかりが素朴で。
 黒い髪ばかりが場にそぐわない、昔の僕のようだった。
 その不釣合いな服装で、面白くもなさそうにクルムホルムは言った。
「最後に、気味のいいものを見られてよかったです。私はもう行きます」
「……待てよ」
「ずっと待っていた、ライラも。おまえが気づいてくれることを。けれどおまえが、気づかなかった。傍にいたのに。先に気づいたのはおまえの友だ。意識的にせよ無意識的にせよ、ヴォルトはレティシアに惹かれていった。その向こう側にライラの魂を見ていたから。その思いに、ライラの肉体も応えたのではないですか。互いに惹かれ合うというのは、そういうことではないのですか。けれどおまえは違いました。おまえは最初から最後まで、人の話を聞きませんでした。誰の声も響きませんでした。届きませんでした」
 僕は首を横に振った。……違う。
 違う。
「どうせ死ねばいいと思っていたのでしょう。懺悔のために始めた自己満足の旅だったのでしょう。今さら善人ぶるのはよしてください」
 そうして、クルムホルムは背を向けた。彼方へ、今にも飛び立って行けると信じているように両腕を広げた。
 左肩がかすかに傾いでいた。何か、忘れがたい傷でも負っているように。
 構わずに、空に告げた。
「その翼は、おまえに差し上げたものです。飛ぶことを忘れた翼とともに、おまえはこの地で永遠を生きてください」
 唇が震えた。
 待ってくれ、と。
 言わなければいけない。
 例えこれから先、どんなに世界が急変していくとしても、人々が忘れていくとしても、僕だけは追い縋り、願い続けなければいけない。
 なのに見惚れてしまった。
 それは光の翼だった。
 クルムホルムの、肩甲骨のある辺りの肌が、みしりと音を響かせてひび割れた。そして皮膚を突き破り、勢いよく金色の水が噴出した。
 水に見えたものは、きらきらと陽の光を照り返す無数の糸だった。
 立ち姿だけならば、少し生意気な貴族の青年風でしかなかったのに。傷痕から幾筋もの金糸を迸らせる佇まいは、ただ、ひたすらに悲壮だった。
 糸は踊り出、収束し、奔流となり勢いを増していく。長い冬に耐えた新芽が一斉に雪の表面を突き破るように。前触れなく。
 無限に。
 もう、元の姿など分からなくなるほどに。
 人の姿を放逐し、植物の弦を彷彿とさせた金色の糸たちは、エトリの原生林で遭った古代樹のように、勢いよく空へと繁茂し始めた。高く。一心に。星の数ほどにも思えた一本一本は、それぞれが繋がるべき未来を探しているかのように危うげだった。縋るように揺らぎ、けれど一時ごとに着実に遠くへと軌道を延ばしていった。いつしか糸は折り重なって、見渡す限りの空を覆い尽くす巨大な翼と成った。さっきまで青かったはずの空が、時を巻き、一日の終わりを迎え入れようとしているかのように橙色に輝いた。そしてその輝きを照り返し、クルムホルムが佇んでいる大地も、鮮やかな金色へと染め上がっていった。
 僕は、それを見ていた。
 瓦礫の中に倒れているはずなのに、金の鉱山で迷子になってしまったかのような幻惑に支配された。突き刺さる光の群像は、直視するにはあまりにも傷ましかった。
 クルムホルムは天まで届く無数の翼を引き従えて、一歩、ゆっくりと前進した。痛みをこらえるように眉をひそめ、唇を噛みしめながら。すると無限の金色の糸は、一流の奏者に弾かれた竪琴の弦のように、荘厳に打ち震えた。
 風が立った。
 ルドの地に入ってから久しく忘れていた、自然の、猛々しい風だった。その風が、さらなる震えを呼んだ。黄金の糸は波打ち、因果のように複雑に絡み合い、不思議な光の紋様を織りなしていった。一瞬ごとに光度を増していく。けれどどうしてか眩しくはなかった。
 こんなにも痛いのに。辛くて、胸が苦しいのに。
 さっきまで金鉱のように主張の激しかった輝きは、控えめにやすらぎ、まるで夕焼けにたなびく小麦畑のように、懐かしくさざめいていた。
 助走だ、と気づいたときには、もう終焉も間近に迫っていた。

 ――言わなくちゃ。

 そのために、歩いてきたのだから。
 誰も彼もの人生を素通りして。
 この、あるかも分からない一瞬のためだけに、捨ててきたのだから。
 どんなに惨めで、愚かで、意味のないことだとしても。それでも、ここで声に出さなければ。叫ばなければ届かないのだ。
 だというのに肌は、全身に吹きつける風は、あれを止めてはならないと、そんなことは人の身ではできないのだと告げていた。
 遠い。
 果てしない壁がある。
 為すすべもなく膝を折った僕を、クルムホルムはかすかに振り向いた。
 いいや振り向こうとして、けれど途中で気でも変わったように、曖昧に首を傾げた。
 きっと飛び立つ思いの丈のぶんだけ、……その思いというのは、あるいは僕に比べたら一欠けらにも満たない、ささいな気まぐれに過ぎなかったのかもしれないけれど、それでも、何かを置いていくことを決心したように、小さく頷いた。
 さくり、と。
 僕とクルムホルムとを繋いでいた糸が、断ち切られる音が聞こえた。
「約束は果しました」
 逆光の中で、クルムホルムの口許が薄く微笑んだ。
 本当に、消えてしまいそうなほど、薄く。
 僕は顔を上げた。唇の隙間から、声にならない思いがあふれては、消えていった。
 ――立てよ。
 誰かが、耳元でささやく声が聞こえた。きっと聞き間違いだろう。僕なんかに、今さらかけてくれるはずもない声だ。けれど隆々とした腕が、確かに背中を押したような気がした。僕は動かぬ右脚を引きずって、前へ出ようと、
 ――動かない。
 いつのまに、青い鎖に足が縫いとめられて届かない。諦めるな。もう一歩だ。――動かない。
 あと、たった半歩が叶わない。
 握り締めた拳に、爪が食い込んで血が滲んだ。今になって焦りが膨れ上がった。どうしていつも僕は、目の前に見えている光に追いつけない。
 追いつこうとしない。
 息が苦しい。呼吸をする一瞬すら、千切れそうなほどに通り過ぎていく。
 今なら、触れられるほど近く、まだそこにいる。
 間に合う。
 間に合え。
 ここで、ここまで来て、声に出せないような願いならば、そんなものは最初から存在していなかったのと変わらない。無かったことになってしまう。嫌だ。
 嫌だ。抗え。もがいてくれ。そんなところに捕まっているような人間じゃないはずだ。その程度の光に、溶け込んでしまう存在感ではなかったはずだ。

 ――君は、もっと鮮やかに笑えたはずだ。

 たかが神に目を付けられたくらいで、諦めてしまうような、そんなしおらしい性格でもなかったはずだ。
 そんな、重たそうな、仰々しい翼を背負わされるほど、身体だって。
 強くは。
「……っ」
 なあ。
 本当は、無理をしているだけなんだろう。帰りたいと泣いて叫んで。頼むから。そうすれば、そこまで走れるかもしれないから。お願いだから。
 ――僕じゃない。

 君が、思い出して。

「――ライラっ……!」

 祈りは、何億と瞬く光の粒子に阻まれて届かない。
 クルムホルムは、ライラと同じ顔をした少女は、――亡霊でもレティシアでもなく、今度こそ本当に愛した人の面影を浮かばせた生き写しは、飛び立つ空に向かってかすかに顔を上げた。
 けれど振り返らずに、あまりにも懐かしい声で言い置いた。
「愚かなおまえが主人公だったこの戯曲に、もしも名前をつけるのならば、そう私なら――モノロギア(独り舞台)とでも」
 風が吹いた。
 砂が舞った。
 瞳から一切の世界が奪い去られた。
 そうして閉じた瞼の向こうに、無数の光の雨が降り始める。 

第18.5話 Dreamed a dream(10)へ続く

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一鷹

モノロギア

「わたしは、あなたの生き汚さに恋をした――」 毎週月曜日連載、ダークファンタジー。素敵なイラストはYFさんより。
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