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子どもらを被害者に 加害者にもせずに

ここ数日、連日のように教員いじめの事件が取りざたされ、非難するツイートや記事を多く目にしながらモヤモヤした気持ちをずっと抱えていました。わざわざ言葉にすると批判的な内容になるので記事にするか迷ったのですが、出来るだけ前向きに書いてみることにしました。

抱いているモヤモヤと向き合っていると、学生時代のある講義のことを思い出しました。

たしか、保護者支援かなにかの授業で「モンスターペアレント」について話していて、よくメディアでも取り上げられる「給食費を払わない」とか「うちの子を発表会の主役に」とかそんな内容だったと思います。内容は曖昧にしか覚えていないんですが、はっきりと違和感を覚えたことを覚えています。その事例を聞いて生徒からは笑い声が起きていたんですよね。これから保育士になろうとしている人間が「そんなやついるん?」「ありえな〜い」と口々に言い合っているのがどうにも許せなかった。本来は、そのありえないクレームや「モンスター」と呼ばれるその保護者を支援していくのが僕たちの仕事なんですよ。分断して切り捨てるのではなく包括して支援していく方法を見つけるのが…。「私たちは正常な価値観を持っていますよ」と確かめ合うように笑う姿に僕は嫌悪感を抱いたんですよね。いま思えば19、20歳の学生だからそんなものなのかもしれないけれど、当時は僕も19、20歳の学生ですから「こんな奴らと同じになりたくない」と失礼なことを思った記憶があります。


話題になっている教員いじめの事件について


その教員を叩く声が多いことと、その問題解決の本質に迫ろうとしている声がほとんど無いことに驚いています。個人を完全な悪人と断罪して糾弾したり、謝罪文の稚拙さを取り上げて揶揄したり、その後の対応にケチをつけているのを見て辟易しています。社会問題としてではなくワイドショーネタのように扱われだして、一般の方々が世間話のネタとして消費するだけなら何も思わないけれど、子どもと関わる保育・教育・福祉関係者まで同じように加害者の人格を非難していることに大きな懸念を感じています。

僕にも怒りはあります。パワハラや虐待の事件をみると、ええ大人がなにしてんねん、と。けれど、僕らの仕事はその人たちを分断して排除することではなく、理解して本質に向き合い解決を目指すことです。

いい子ちゃんぶった言い草に気分を害する方もいるかもしれません。けれど、自分がどこに向かっているのか、どっちを向いて歩いていくのか、なにと戦うのかをきちんと認識しておかなければいけないと思うんです。自分たちは大丈夫だ、まともな価値観を持っている、と安心するのではなく省みて襟を正す機会にしなければ。


この記事も「「悪口を言う人の悪口」を言う人の悪口を言うような行為」とならないように、前向きに整理するものにしたいと思います。


いじめっ子を叩くことは「いじめはいけないことだ」と表明することにはならない

「いじめっ子を叩いてもいじめの解決にはならない」と言うと「いじめをしている人たちを擁護しているのか」と感じる方もいるかもしれません。実際に「いじめに消極的すぎるのは危険ではないか」というご意見もいただきました。その通りだと思います。「いじめ」を良しとしてはいけないし、断固許してもいけません

だからと言って、いじめっ子を叩くことが「いじめを許さない」という意見の表明になるのでしょうか。


これ、[1+1]という問いに「3」と答えた人がいた時に、「なんで3なんだよ、バカかよ」「答えは2だろうが、なに考えてんだ」と大きな声で叫んでいるようなものだなあと思うんです。(例えがうまいかどうかは置いておいて)
「3ではないこと」と「答えが2であること」は誰か一人が本人に教えてあげればいい話です。皆が口ぐちに「3なわけあるか」「2に決まってるのに」「なんで3とか言うかなあ」と間違えた回答者を責め立てる場面があれば、多くの大人は止めるんでは無いでしょうか。「それ言ってもなにも解決しないよ」と。

声を上げることが悪いというわけではなくて、例えば「あれはいじめではなく犯罪だ」という声は「3って答えたのに✖️じゃなく△もらってんじゃん!それは完全にバツだろう!」というもの。真っ当な主張だし認識のズレを調整しようとしているから、より多くの声があったほうがいいです。


では何を見るのかというと
なぜ、[1+1]の答えを[3]としてしまったのか。それを想像し理解に努めていくこと。その人が同じ間違いを犯さないように、同じミスをする人がいないようにどんな対策ができるかを考えていくことだと思います。

「なぜ、いじめは起きたのか」「なぜいじめた側はそれをいじめと認識できていなかったのか」「同じことが起きないために、なにができるのか」


あいつは間違っている。からはなにも生まれません。子どもたちのいじめ問題についても同じです。手を出した子がいた時に、「はい叩いたー!お前が悪いー!」と外野が過剰に加害者を糾弾することがあります。叩かれた子が怒るのならわかるけれど、関係ない外野がわざわざ騒ぐのはお門違いです。叩かれた子を守ったり寄り添うためなら必要なことだけれど、他人がその人の人格までも否定していいものではありません。「大人なのだから善悪はわかるはずだろう」という声もあると思いますが、それは攻撃していい理由にはならないし法が裁くことです。外野が個人攻撃をしはじめると、みんなが忌み嫌っているはずの「いじめ」を自分たちがしてしまうことになります。自分が「気づかない」うちに。


間違ってもそんな解釈にはならないと思いますが、「被害者も加害者の気持ちを分かれよ」ということでもありません。被害を受けた方は許す必要なんか無いと思うし、加害者は罪と向き合って償うべきだと思っています。


加害者を理解しようとすることは擁護することではない

どんな問題でも個人(加害者)のみに原因があることはほとんどありません。さまざまな要因が複雑に絡み合い、その問題が起きます。
「悪いことは悪い」それはその通りだけれど、「悪いことをした人が悪い」という考え方は危ういものです。罪を憎んで人を憎まずの精神ってとても大切で、「行為」と「人格」を分離して考えていかないと本質的な解決には向かいません。
物の見方は保育にも影響します。今回の件で加害者を断罪している人の多くは間違いなく悪気なんてなく「正義の心」でやっていることだと思います。その正義の断罪を子どもに対しても向けているのかもしれないと思うと大きな危機感を感じてしまいます。


その行為は良くないこと。その良くないことが「なぜ起きたのか」を考えるときに、加害者について想像し理解することが必要になってきます。

たとえば、「いじめているつもりはなかった」という言葉を聞いて「そんなわけないだろう」「しらばくれるな」という怒りが出てくるけれど、その怒りを横に置いておいて「本当に気づいていなかったのなら自分も同じことをしているかもしれない」という想像をしてみます。それは、その加害者の気持ちも汲み取って許してあげようということではなく、その行為を理解し分析するということです。

「気づいていない」のだから、自分も「人を傷つける行為」をしていてもそれに気づいていないのかもしれない。気づいていないことに気づいていない…恐ろしくなってきますね。


以前、いくつかの部署が集まる会議で先輩方から「イジられた」ことがあります。周りの人間も乗っかってヘラヘラ笑っていたので「気分を害した」旨を伝えて離席しました。後日呼び出されて会議を途中退席することについて注意を受けました。年上で役職も上の先輩たちは「あれはノリやん〜それを受け止める力も必要やで〜」と悪びれることなく言ってきたので「いじめの構造と同じですよ」と伝えました。上司には、気分を害したら表明する権利と表明の方法に「その場から離れる」という選択肢は必要ですよと進言しました。僕みたいな向こう見ずだから離席したけれど、真面目な職員なら笑って我慢しているでしょう、と。表面化していないだけで、辛い思いをしている人たちは多くいるんじゃないのかと。(その時に謝罪しなかった先輩たちは、今回の教員いじめの事件を見てどんなことを思っているんだろう。「ありえない」と断罪せずに「自分たちも気をつけないとね」と言い合えていたらいいなあ。)


今回の、教員いじめ事件。なんにも珍しくないんですよね。それは、被害者になることだけではなく自分が加害者になることも大いにありえるってこと。すでに、なっているかもしれないってこと。

かくいう僕も、職場で軽口を叩くことはあるし、自分の隠れた偏見や差別感情に気づいて反省することばかりなので「気づかず」にいじめのような行為をしてしまっているかもしれない。自分を棚に上げずに、棚から下ろして手に持ってきちんと向き合いたいなと思います。


どうすれば被害者も加害者も出ないようにできるかを考える

うちのクラスでいじめはありえない。きっとそう思っている保育者や教員は多いと思います。職場でも立場が上になればなるほど「うちの部署ではパワハラもセクハラもない」と思ってしまいます。思い込みたいのではなく「気づかない」んですよね。

上記の一件があってから「こんな腹立つことあってな」という話をチームの職員で共有して(愚痴として吐いて)、少し冷静になったら「ぼくも気づかずにしているかもしれない」と怖くなって「気分を害したら伝える」「伝えづらかったら言える人に相談する、その場から離れる等の意思の表明をする」ことができる環境を作っていきたいとチームメンバーにお願いしました。それに加えて周りも「それはセクハラ・パワハラに当たるんじゃないか?」ということを気軽に指摘し合おうという話になりました。職員のなかで「そんなダサい職場にしないようにしよう」「みんなが気持ちよく働けるようにしよう」という思いを共有しました。被害者が自衛しろよということではなく、お互いに加害者にも被害者にもなり得るから気づける環境を作れたらと思いました。


意識してみると思いのほかパワハラに当たるかもしれないことが多くあり、その都度声をかけ合いました。「あ、今のパワハラちゃいます?」指摘された者は「いや、ノリですやん〜」と言いかけて「あ、違うな。それじゃあアレと一緒ですね。そう思われたなら僕が悪いですね…気をつけよう」と振り返るようになっていきました。それでも、まだまだ本質的な解決には届いていないなあと感じます。
今回の事件を見て、改めてそれぞれが振り返る機会にしなければならないなと感じます。人間同士だから傷つけることはある。「相手はどう思っているだろう」という配慮を欠かさずに、間違えたら謝罪して反省して改めて、を繰り返すしかないんだろうなと。

そして、この問題も個々が「気をつける」だけではなく、それが起きる構造を理解して仕組み(ルールや制度ではなく環境と構造)として構築できれば根本的な解決に向かうと思っています。難しいんだけれど、僕はそっちの方向を向いていたいなあって。

ひとまずみんな、怒りのステージを超えたなら、次は「自分はおもろい思ってるけど、もしかしてスベってる?」と振り返る機会にしようよ。あれがダサいと思ったのなら「ダサい」って貶すだけでなくて「カッコいい大人であるために何に気をつける?」という話をしようよ。よかったら、どうすればみんなが加害者にも被害者にもならないようにしていけるか一緒に考えていこうよ。そんなことを思っています。


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