創作ってなんだろね

答えが出そうなので、考えながら書き進めます。ここ最近、「ウマ娘」というゲームが大流行しているようですね。なにしろリリースに数年かかったとかなんとか。実在の馬を元にしたキャラクターが、それぞれ独自の物語を繰り広げ、最終的に優勝を目指す。いいと思います。

でもなんか好きになれないんですよね。ゲームをインストールはしていないのですが、Twitterでその内容は十分伝わってきます。アグネスタキオンがトレーナーを光らせる、ゴールドシップが宇宙に行く、ハルウララとライスシャワーが尊い、ウマ、ウマ、ウマ。鬼滅の刃ブームを思い出しますが、今回はそんなもんじゃなく、Twitter開いたときにウマ娘の話題見ないときはありません。もう包囲されてる気分。

私の創作の先輩達はアイドルマスターシャイニーカラーズをやり込んでいます。詳しくは語りませんが、壁にシール貼る先輩とか。彼らが楽しんでいる場を見ると結構な確率で話を聞きに行くことはありますが、喋ることはほぼありません。遊んだことないし、何も知りませんから。もちろん、私がそのことに手を出せば、彼らは喜んで私を導いてくれるでしょう。今回もそう、やり始めたらどれほど周囲との会話が弾むか。でもどちらも始めないんですねえ。どうしてやる前から避けているんだろう。

2つの共通点は、「女の子を」導くということ、そして「主人公」が存在しないこと。プロデューサーやトレーナーという概念はあるようですが、そこにはプレイヤーの人格が収まるわけです。DDLC(ドキドキ文芸部)もそんなゲームでしたね。私あれは好きですが、好きなところといえばモニカの話を聞くところだけで、他はそうでもないですね。あとエンディング。練習して、your reality歌えるようになったんですよ。

話が逸れました。私はかわいい女の子は好きですし、おそらく現実で女の子を育てるとなれば(かわいいかどうかに関わらず)喜んで励むでしょう。じゃあゲームの何がいけないのか。

聞きたいのですが、それらのゲームは「育てる」という操作を行っているでしょうか?これもやはりTwitterの情報だけで十分推測できるのですが、確かにそれぞれの個性を見極め、勝負に有利な特性をつけ、結果が出るまで粘り強く続ける。これは間違いないようです。でもですよ。これはただの道具の手入れでは?つまり、「育てる」ということは行えていないように思うのです。

人間を育てるのであれば、もちろん観察、改善、根気は必要です。ですがそれ以上に、「お互いがお互いをよく見る」ことが必要ではないでしょうか。例えばロボットにテストを渡せば、弱点を克服する勉強方法を教えてもらえる時代が来たとして、そこで学力は向上しても成長は得られるでしょうか。私はちょっと嫌ですね。では、画面の向こうにいる彼女達はあなたのことを見てくれているでしょうか?

別に存在を否定なんてしてません。人間だってタンパク質の集合で、意識は電気信号の集合(たぶん)です。ですが残念なことに、彼女達はあなたに合わせて言葉を紡ぐことはありません。どこまで行こうと、そこにあるのはあらかじめ用意された文章だけです。もっというと、彼女達の魅力の中で外見的魅力が占める割合はとても大きいでしょう。これらのゲームから「キャラクターの外見がかわいい」という強さが取り払われたらどうなるか。女子キャラクターがかわいくない作品なんてない?刃牙シリーズ読んでから言って下さい。キャラクターが「女の子」というのも大きいでしょうね。ウマ坊主というアプリが出てきたら、ギャグゲーの一言で済ませられそう。

うだうだ言いましたが、結局その存在全ては魅力を与えるために誰かによって作られたもの、創作されたものということです。ここからが本番です。私は創作サイトに所属していますが、創作が嫌いなのかもしれない。創作ってなんぞ。考えに考え、答えのようなものが見えた気がします。

私のする創作は、新しい世界を作り上げるものです。というか創作って全部そうですね。その中で私がしていることは、世界の解像度を上げること。私がしてないことは、新しい物語を生み出すこと。後者は通常「幻覚」と呼ばれており、日々幻覚をキメる人々が周囲にたくさんいます。どちらの創作が優れているとかはないのですが、私は幻覚を作るのも吸うのも苦手です。幻覚が幻覚と呼ばれる所以は、ほとんどの場合メインの世界には適合しないからです。私は世界の解像度を上げる方を好むため、適合しないもののことなど考えないのです。

「する創作」の好き嫌いは分かりましたが、「取る創作」の好き嫌いも考えなければいけません。小説や漫画を読むのは好きです。あれらのキャラクターも、読者に魅力を与えるために実に様々な工夫がされていますが、間違っても私の方を向くことはありません。ちゃんと主人公の方を向いています。世界も物語も、この中で完結しているわけです。ではゲームはどうか?主人公が存在せず、キャラクターがこっちを向いているじゃありませんか。そしてそこには穴が空いており、頭を突っ込むように誘いかけている。

私を完全に締め出して閉じている物語と、私が首を突っ込んで作り物の目と作り物の声を見つめないと動き出さない物語。私は前者の方が好きです。私は確かに主人公ですが、ゲームのではありません。目の前に広い世界と活きた眼と声があるのに、わざわざ誰かに用意された世界と眼と声を選ぶ意味などない。もし私がそれを選ぶとしたら、現実逃避のときでしょうね。まあプレイヤー全員が全員現実逃避でゲームをしてるのかと言うとそんな訳はなく、私のように余計なことを考えずに、ゲームはゲーム、創作は創作、現実は現実だと割り切って楽しくプレイしてるのだと思います。

もしもトレーナーやプロデューサーに明確な名前や生い立ちが存在するのなら、私の態度は大きく異なってたと思います。その場合、私は彼らを操作するのみに留まり、物語や世界は彼らの中だけで完結する。私はそれを物語として楽しみ、わざわざ裏側を見通すこともない。実際Twitterの、キャラクター同士のオリジナル漫画くらいならときどき読んでますし。そういう意味で、ポケモンやドラクエは好きです。もっともポケモンは対戦の駆け引きが好きな事の方が大きいでしょうがね。

長くなりましたが、創作者として納得のいく結論が出せたように思います。閉じた物語を好み、私が入るために穴の空いた物語は好まない。そういえば著者娘という概念が最近生まれましたが、正直あれに対するスタンスは微妙です。何せいくつも穴の空いた物語を用意して、そこにみんなで頭を突っ込んでお互いを見つめるジャンルですからね。Imerimo娘を作るのは自由ですが(作る人いないと思うけど)、そこに私が頭を突っ込むことはないでしょう。

最後に、こんな結論を出しましたが、創作活動も通話もこれまで通り続けさせてほしいなと思います。邪魔をすることはないと約束いたしますので。

文章として言いたいことはこれで伝わるかな。それでは。

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