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1日1分歴史小話(無料メルマガ)

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2017年6月の記事一覧

#0075【ヒッタイト王国(メソポタミア、BC16世紀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 古代メソポタミア特集の最後はヒッタイト王国を取り上げます。 ハンムラビ法典を制定したハンムラビ大王が死んだのち、メソポタミアを支配していた古バビロニア王国は徐々に衰退していきます。 古バビロニア王国はイラン高原からカッシート人、アナトリア半島(現トルコ)からヒッタイト人に攻め込まれます。 そしてBC1530年頃にヒッタイト王国によって古バビロニア王国は滅亡させられました。 ヒッタイト王国が古バビロニア王国を滅ぼすことが

#0074【ハンムラビ法典(メソポタミア、BC18世紀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 No.73の続きで、古代メソポタミアの歴史をみていきます。 シュメール人の都市国家は、BC2400年頃にアッカド人のサルゴン1世の手によって征服されます。 その後メソポタミア地域はアッカド王国によって統合が進みますが、BC2250年には北東から侵入してきたグティ人によって滅ぼされてしまいます。 アッカド王国が滅亡後、グティ人による支配が80年ほど続いたのち、シュメール人が復権しますが今度は遊牧民のアムル人が侵入してきます

#0073【シュメール人(メソポタミア、BC4000年紀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は古代メソポタミア文明の特集です。 古代メソポタミア文明はいわゆる世界四大文明の一つであり、現在のイラク・中東の地を流れる、ティグリス・ユーフラテス両川に囲まれた地域で興隆しました。 ちなみにメソポタミアとは「二つの川のあいだの土地」を意味しています。 この両川に囲まれた地域は土壌がよく、農業・牧畜に適した土地でした。この地に住んでいたのがシュメール人です。 生産経済が発達したことにより富の蓄積が行われ、それを守る

#0072【ラ・ファイエット(フランス、18C後半-19C前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 フランス革命前期の指導者ラ・ファイエットを紹介します。ラ・ファイエットは、後に「両世界の英雄」と呼ばれます。ヨーロッパ世界とアメリカ世界の両方で名を馳せた人物です。 1776年にアメリカでイギリスに対する独立宣言が出されると、その理念に共感したラ・ファイエットは義勇軍を編成してアメリカに亘り、独立戦争に加勢します。当時20歳の若さでした。フランスの正式参戦後は正規軍の指揮下に入って1781年のヨークタウンの戦いで大勝利を得て

#0071【ミラボー(フランス、18世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 フランス革命前期の指導者として今回はミラボーをご紹介します。彼は第二身分である貴族階層の出身でありながら、第三身分からの選出者として三部会に参加していました。 ミラボーは素行不良で父親から疎まれ、廃嫡されたり、禁治産者処分を受けたりと苦労し、さらには人妻と駆け落ちを図るなど、なかなかのやんちゃものでした。 三部会が開催されると知ったミラボーは、自分の評判では第二身分から選出されることが難しいと判断し、自分は平民の味方である

#0070【フランス革命の勃発(フランス、18世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週はフランス革命前期に活躍した人物を取り上げます。 まずフランス革命勃発の経緯について概説します。 1789年に起きたフランス革命は、現代社会の根幹である「民主主義」や「法の支配」といった概念をもたらしたものであり、筆者は人類史上、十指に数えられる大事件だと考えています。 フランス革命は、直接的にはフランス王室(=国家)が対外戦争(アメリカ独立戦争支援など)等で拵えた多額の負債による国家財政の悪化をどのように立て直すかが

#0069【明の洪武帝(中国、14世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 中国歴代王朝の創始者特集の最後は明の洪武帝(本名:朱元璋、生没:1328年~1398年、在位:1368年~1398年)です。 彼は最貧農の子から中国統一王朝の皇帝となりました。洪武帝には三つの顔があったと後世の歴史家から評されています。 曰く 「洪武帝は一人で、聖賢・豪傑・盗賊の性格を兼ね備えていた。」 彼は非常に英明な面がありました。何よりも戦争に強かった。 中国は長江を挟んで北と南に大別されますが、北部から南部を攻めて

#0068【北宋の太祖(中国、10世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 中国歴代王朝の創始者特集ですが、今日は北宋の太祖(本名:趙匡胤(ちょうきょういん)生没:927年~976年、在位:960年~976年)です。 彼は代々軍人の家系に生まれます。 父も将軍でそれなりの地位にありました。若様でもあった太祖は諸国漫遊の旅を許され、中国各地で色々なヒト・モノ・カネ・そして情報に触れていきます。 当時の中国は超大国であった唐が滅び、中央部は政治の混乱で王朝が次々と変わっていき、周辺部はそれぞれの地域が

#0067【後漢の光武帝(中国、1世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は中国歴代王朝の創始者を特集したいと思います。まずは日本の奴国に金印(漢委奴国王)を渡したことでも有名な後漢の光武帝を紹介します。 後漢の光武帝(本名:劉秀、生没:BC6年~AD57年、在位:25年~57年)が生きた時代は、前漢王朝を王莽(おうもう)が滅ぼし、政治が大混乱していました。 さらに飢饉の発生や大規模な農民反乱もあり、各地で反王莽の動きが活発化します。 前漢の皇室に連なる家系でもある光武帝たちの一族も、反王莽

#0066【蝦夷との争いと征夷大将軍(日本)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週の日本史通史シリーズの締めくくりとして、蝦夷との争いと征夷大将軍について述べます。 まず「蝦夷(えみし)」という呼称ですがこれは蔑称です。日本の朝廷の勢力下に入っていない東北地方の集団をさして「蝦夷」と呼称します。 朝廷は飛鳥・奈良時代から東北地方を勢力下におくべく幾度となく派兵をし、徐々に勢力を広げていきました。 東北地方が「みちのく(道の奥)」と表現もこういったことを背景にしています。白河の関(現:福島県)より先は

#0065【桓武天皇と平安建都(日本、8C末‐9C初)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今日は【0051:称徳天皇と道鏡】の続きです。称徳天皇崩御後の770年に天智天皇系の光仁天皇(天智天皇の孫)が即位します。 781年に光仁天皇が高齢のために没すると彼の息子が即位しました。桓武天皇です。ちなみに桓武天皇の母方は百済王族(朝鮮半島出身)の末裔でした。 桓武天皇は、天武天皇系の都である平城京から遷都をすることを決め、784年に長岡京に遷都します。しかし長岡京造営中に桓武天皇の腹心である藤原種継が暗殺される事件が

#0064【三世一身の法と墾田永年私財法(日本、8世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は日本通史シリーズを取り扱います。前回は【0051:称徳天皇と道鏡】まで進みましたが、ここで古代日本の土地制度の変遷について触れておきたいと思います。 古代日本は、天皇家のみならず豪族たちも土地と住民を私有していました。やがて豪族の中から天皇家よりも力を持つ蘇我氏が出てきて、天皇の権威に挑戦するような動きが出てきました。 これを乙巳の変(いっしのへん:645年)で排除したのが、中大兄皇子と藤原氏の祖となる中臣鎌足でした

#0063【イブン・バットゥータ(イスラム世界、14世紀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週最後は、イブン・バットゥータです。 0061と0062で紹介した知識人二人と同じように、イブン・バットゥータもイスラム世界の中を移動していきます。 彼もイスラム法学者として各王朝を渡り歩きますが、後世へ与えた影響は、知識体系の提供ではなく、自分の旅の記録を『大旅行記』として残したことです。 14世紀の世界を描写する重要な史料を提供してくれました。彼は「史上もっとも偉大な旅行家」の一人として数えられています。 130