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1日1分歴史小話(無料メルマガ)

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不定期で歴史に関する小話を配信しています。スマホからでもパソコンからでもお気軽にお読み頂けます。過去分も是非ご覧ください。
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#日本史

#0250【愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ】

こんばんは! 1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今回を以て一旦の区切りとさせて頂きます。最後のメール配信です。 これまで様々な角度から歴史を取り上げてきました。歴史ときくと、「事実・知識を覚えること」、「昔のこと=いまと関係ない」、「時代が違う」といったイメージが生じる人も多かったと思います。 このメルマガは、歴史に通っている血流というか体温というか、熱気というものを感じて頂ければと思ってスタートさせました。 独立以後、様々なメディア・媒体にて歴史を軸に

#0243【足利義満政治の否定・反動(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は月初の日本史通史シリーズです。 前回:No.242【金閣寺と足利義満の野望(日本史通史)】 志半ばで死去した足利義満の跡は、長男の足利義持が主導権を握ります。父から征夷大将軍の地位は受け継いでいたものの、父の愛は弟の足利義嗣に注がれていました。 天皇が北山第(金閣寺一帯)に訪れた際に、義満は義嗣を侍らせ、義持には周囲の警護の任務を与えました。 父の死後、二人の対立は頂点へと達します。これに加えて、室町幕府は当初より

#0242【金閣寺と足利義満の野望(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は月初の日本史通史シリーズです。 前回:No.241【花の御所と足利義満の野望(日本史通史)】 元征夷大将軍としての武家に対する権威と、元太政大臣としての貴族に対する権威、さらに出家して寺院に対しても特別な地位を得た義満は、いよいよ天皇家に対してもマウンティングを開始します。 実は時の天皇と義満は、母を介して従兄弟だったのです。そして亜流とはいえ源氏ですので、父方を遡れば天皇家に辿り着きます(源氏は皇族から臣籍降下した

#0241【花の御所と足利義満の野望(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は月初の日本史通史シリーズです。 前回:No.228【南北合一と足利義満(日本史通史)】 今回は金閣寺を築いたことでも有名な室町(足利)幕府三代将軍、足利義満の野望を中心に話を進めていきます。 日本の歴史上には三つの幕府が存在しました。一つ目は鎌倉幕府です。本拠地を鎌倉に置いたことからこう呼ばれています。幕府のトップは征夷大将軍と呼ばれる役職の人物です。 鎌倉幕府では当初、源氏の棟梁(一族のトップ)である源頼朝が征夷

#0237【悪人は救われる。ましてや善人は(親鸞、鎌倉新仏教)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は極楽浄土や阿弥陀如来に関する全体像について触れ、前回は浄土宗の法然を取り上げました。 前回:No.236【法然】 今回は法然の弟子で、彼の考えから一部独自路線を歩み浄土真宗を立ち上げた親鸞(しんらん)を紹介します。 親鸞は、1173年に下級貴族の子として京都に生まれますが9歳のときに比叡山にて出家します。 青年時代は雑務をこなしながら「不断念仏」という念仏をひたすら唱えるという下級僧侶として修業を重ねます。 12

#0236【真心こそが(法然、鎌倉新仏教)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 前回、極楽浄土や阿弥陀如来に関する全体像について触れました。 前回:No.235【阿弥陀如来と念仏】 今回は、浄土宗の開祖である法然(ほうねん)に着目していきます。 法然の出自は、どうやら下級武士だったようです。幼い頃に土地争いで父が殺されてしまいますが、父は法然に仇討ちよりも出家して父の菩提を弔ってほしいとお願いされました。 法然は、比叡山延暦寺におもむき、出家して修行を積んでいきます。 当時の比叡山は最澄が開山して

#0235【阿弥陀如来と念仏(鎌倉新仏教)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は日本史通史シリーズにおいて取り上げた鎌倉新仏教の中でも念仏に注目したいです。 No.164【鎌倉新仏教の興隆】 今回は、浄土宗を開いた法然(ほうねん)とその弟子であり浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)の二人を取り上げます。 法然は水曜日に、親鸞は金曜日に個別にお話ししますが、まずは二人の教えの根幹たる「阿弥陀如来と念仏」について解説します。 浄土宗も浄土真宗も、極楽浄土にいる阿弥陀如来を信仰する点では同じです。 そ

#0228【南北合一と足利義満(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 日本史は、鎌倉幕府の崩壊から建武新政の誕生と瓦解、そして南北朝の動乱目まぐるしい時代を迎えてきました。 (前回:No.227【妥協の産物、室町幕府(日本史通史)】) 背景には、武士と貴族の対立だけでなく実力主義の横行による権威やモラルの瓦解といったものも大きかったと感じます。 南朝と北朝それぞれ、自分たちに都合の良い天皇を担ぎ上げることで正統性を担保していました。そのため、実力者たちは権威は自分たちで作り上げることができ

#0227【妥協の産物、室町幕府(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 月初の通史シリーズですが、しばらく主役を張っていた後醍醐天皇が1339年に吉野で死去します。 (前回:No.226【南北朝時代、凋落する権威とモラル(日本史通史)】) 息子に天皇位を譲ったのは死の前日。 死にあたっては、左手に法華経第五巻、右手に剣を持ち「玉骨(天皇の遺体、ここでは後醍醐をさす)はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄は常に北闕(ほっけつ、北方の宮城、ここでは京都のこと)天を望みたい」と遺言を残しました。 (太平記の

#0226【南北朝時代、凋落する権威とモラル(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は月初の通史シリーズです。 遂に後醍醐天皇を中心とした建武政権は、崩壊します。足利尊氏が京の都に攻め込んだことで、後醍醐天皇は比叡山へと逃れます。 (前回No.216【理念先行・現実無視の結果(建武新政の崩壊、日本史通史)】) 尊氏が京都を占領したものの、当時の京都は日本を代表する都市であり、人口密集地。生産拠点ではなく消費地であるため、大勢の軍隊を養うだけの食べ物がありません。 京都は盆地であるため、包囲されてしま

#0222【徳川家康の恋愛モットー(家康の妻・愛妾たち)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は戦国の女性特集ですが、最後は徳川家康が愛した女性たちを紹介します。 徳川家康は、75年の生涯において正妻を2人、側室を20人弱、抱えました。 子どもは男子だけでも7人の女性との間に11人生まれました。有名どころを挙げます。 長男、松平信康(織田信長の娘と結婚、切腹死) 三男、徳川秀忠(二代将軍) 十一男、徳川頼房(水戸徳川家の祖、水戸黄門のお父さん) 家康は、女性の出自にこだわらず、後家好みだったと言われています。戦

#0221【三者三様、怒涛波乱の人生(浅井三姉妹)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は戦国の女性特集です。 浅井三姉妹ときいて、ぱっとイメージが湧く方はどれだけいるでしょうか。 浅井長政という滋賀県北部を領していた武将と、織田信長の妹お市の方の間に生まれたのが、浅井三姉妹です。 父が信長に逆らい、生まれ育った小谷城が落城し実父は切腹して果てました。信長の姪である浅井三姉妹は母お市の方と一緒に信長の庇護下に入ります。 本能寺の変が起きると、それまで再婚を拒否していた母は、信長の重臣である柴田勝家と再婚

#0220【戦国女性の意地(高台院(おね)と芳春院(お松))】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 今週は戦国時代の女性特集です。 一回目は、豊臣秀吉の正妻、高台院(おね)と前田利家の正妻、芳春院(お松)を取り上げます。 この二組の夫婦は、織田信長の配下にいたときからの付き合いです。同僚だった秀吉と利家だけでなく、妻同士も非常に仲が良かったと伝わっています。 前田利家は武闘派として、豊臣秀吉は知略派として、織田信長政権において出世をしていきます。やがて秀吉は中国地方の方面軍司令官となり、利家は北陸地方の方面軍司令官補佐と

#0216【理念先行・現実無視の結果(建武新政の崩壊、日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。 月初の日本史通史シリーズ。鎌倉幕府崩壊後の後醍醐天皇による後醍醐天皇(とその側近達)のための政治は大きく綻びを見せました。 (前回:No.215【自分勝手は滅びの元(建武新政の綻び)】) 京都が遠い陸奥(東北地方)と鎌倉(関東地方)に将軍府をつくり、後醍醐天皇の息子たちがそれぞれ将軍として赴任していました。 しかし、行き当たりばったりのその場しのぎの政策ばかりを実施する京都の政権に対して各地の不満が頂点に達します。 そん