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#0242【金閣寺と足利義満の野望(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本史通史シリーズです。

前回:No.241【花の御所と足利義満の野望(日本史通史)】

元征夷大将軍としての武家に対する権威と、元太政大臣としての貴族に対する権威、さらに出家して寺院に対しても特別な地位を得た義満は、いよいよ天皇家に対してもマウンティングを開始します。

実は時の天皇と義満は、母を介して従兄弟だったのです。そして亜流とはいえ源氏ですので、父方を遡れば天皇家に辿り着きます(源氏は皇族から臣籍降下した一族です)。

しかし、父方はいくら天皇の末裔とはいえ、かなり系図を遡らなければ天皇に辿り着きません。

一方、義満の母は順徳天皇(鎌倉時代の天皇)の孫の孫に当たります。決して近いとはいえませんが、時の天皇と従兄弟ということもあり、天皇家は彼にとって身近な存在だったと思料します。

自分の役職就任パーティーと天皇のお祝いパーティーをことごとく同じ日程でぶつけて、誰がどちらに参加するのか踏み絵を踏ませるなど露骨に天皇家よりも自分の方が偉いのだぞと見せつけるかのような行動をしたこともありました。

1398年には京都北山に金閣寺を建立。今では金閣寺は、その本体のみ(焼失により再建)ですが、義満の最盛期には霞が関のような官公庁機能も併設されていました。金閣寺も含めて北山殿と呼ばれていました。

さらに金閣寺自体も一層目が寝殿造という貴族様式、二層目が書院造という武家様式、三層目が禅宗様という仏教様式にて作られており、その頂点には鳳凰(天下を平和にした名君のときに現れる伝説の鳥)像があります。

「俺は、貴族よりも武家よりも寺社よりも天皇家よりも上なんだぞ」

という義満の雄たけびが聞こえてきそうです。

時の天皇がノイローゼ気味になるほど、義満の圧迫は強まります。1402年には中国との貿易のために中国皇帝から「日本国王」に任命されるなど、着々と権威付けを重ねていきます。

1408年には天皇を金閣寺に呼んでパーティーを開くと天皇と横並びに座りますし、さらに自分のお気に入りの息子、足利義嗣を天皇の息子と同じ格式で元服(成人の儀式)させました。

こういった得意絶頂にあった同年に、足利義満は急死、享年50歳。人生50年と詠われた時代とはいえ、それまで元気だった人間が僅か数日で急死したことから様々な憶測があります。

義満の死後、天皇経験者でもなければ、天皇家でもない義満に対して、天皇家・貴族の京都朝廷は、義満に対して「太上法皇(上皇)」の尊号を贈ろうとしますが、義満とソリの合わなかった息子の足利義持(四代将軍)が授与を拒絶しました。

日本における全ての権威の頂点に立つという義満の野望は彼の死を以て終わりを迎えます。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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