#0169【見栄を張らずに(保科正之)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。今週は江戸時代の名君特集です。

江戸時代は、日本の歴史上屈指の平和な時代でした。日本国内での戦争はなく、海外からもパックス・トクガワーナと称賛される時代でした。

江戸時代の地方政治は、「藩(はん)」という地方を治める組織と徳川幕府の直轄地(大坂や佐渡金山、日光など)に分かれていました。

藩は、大名ともよばれる藩主とその家臣たちによって統治され、幕府(中央政府)から派遣された代官(武士)によって統治されていました。

今回紹介する保科正之は、姓は保科ですが、実は二代将軍徳川秀忠の実子です。三代将軍徳川家光の異母弟です。

秀忠の妻は、お江与の方(大河ドラマの主人公にもなったことがあります)といって非常に気が強く、当時としては異例なことに側室を秀忠に許しませんでした。

その秀忠が別の女性との間にもうけた男子が後に保科正之となるのですが、恐妻家の秀忠は、その子を保科家に預けます。

妻の死後にようやく、その子は認知されて異母兄の家光からも信頼を受けます。

正之は、現福島県の会津若松を中心とした会津藩の藩祖(初代藩主)として、民衆のための政治を行いました。

世界水準でみても当時としては異例な年金制度を導入したことで知られています。受給資格は90歳以上。身分にかかわらず日々の暮らしを支えてもらっていました。

他にも保科正之の業績として語られるものが、江戸城の天守閣を再建「しなかった」ことです。

江戸は、現代東京でもそうですが乾燥し、人口が密集して強い風にさらされています。一度、火事が発生すると一大事になりかねない。

そのため、火付けの犯人は最大罰として火あぶりの刑に処せられていました。

保科正之が幕府の中軸として中央政治においても責任ある立場にあった時に江戸で大きな火事が発生しました。

明暦の大火とよばれるものです。
これは明暦3年1月18日(1657年3月2日)から明暦3年1月20日(1657年3月4日)までに江戸の大半を焼いた大火事で、江戸城の天守閣も焼失しました。

正之は「天守閣は軍事施設であり、泰平の世の中においては無用。それよりも民衆の救済に財政を投じるべき」として、天守閣の再建を延期を決断。最終的に再建されることはありませんでした。

また、大火事の反省を踏まえて、各所に広小路(上野や両国)を設けて火除け地としました。

天守閣という権威の象徴よりも民衆救済、災害対策を優先させる正之の姿勢は現代においても見習うべきものがあります。

優先順位において、何が大切か。政治に限らず、「見栄」のために大切な予算を使っていないか。大切なことは何なのかを保科正之は伝えてくれているように感じます。

自分の甥にあたる四代将軍徳川家綱からも厚い信認を受けていましたが、1672年に61歳で死去。

既に殉死(主君の死に際して部下が後追い自殺すること)を禁じており、この殉死禁止令も名君としての正之の業績として語られています。

自分を助けてくれた保科家に配慮して、彼自身は保科姓のままでいましたが、徳川幕府に繋がる一族ということで子孫は松平姓を使い、幕末まで徳川幕府を支える藩として存続。正之の遺風を後世に伝えてきました。

以上、本日の歴史小話でした!

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