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#0214【言行不一致が不信感へ(建武新政の不安定な門出、日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の通史シリーズです。前回、不屈の傑物である後醍醐天皇の号令によって鎌倉幕府が滅ぼされたところまで叙述しました。

(前回:No.204【得意満面の悲願達成(後醍醐天皇と鎌倉幕府の滅亡)】)

隠岐の島に流された後醍醐天皇でしたが、意気揚々と京の都へと舞い戻ります。

後醍醐天皇は自分が島流しされていた間に鎌倉幕府の手によって擁立された光厳天皇の即位を否定。光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言します。

さらに関白の鷹司冬教を解任して、後醍醐天皇自らが政治を行う体制を整えていきます。

いよいよ自分の思い通りの政治が出来る。彼の政治を、新しく制定した元号「建武」から「建武の新政」と呼ばれています。

本人としては、あくまでも過去の天皇が直接政治をしていた時代に戻るつもりでいましたので、以前は「建武の中興」と呼ばれていました。

しかし、過去とはあまりにも政治情勢が違っており、武士を無視しては成り立たない社会になっていることを踏まえ、現在では「建武の新政(=建武の新しい政治)」と呼ばれることが多いです。建武政権と呼ばれることもあります。

ちなみに「建武」という元号は、貴族たちからは「武」という文字が不吉であるため避けた方がよいと提言されましたが、後醍醐天皇は無視して自分で決めてしまいました。

さて、何でも自分の思い通りになると思った彼に対して、ある問題がのしかかります。

それは恩賞問題です。鎌倉幕府を滅ぼすにあたって、我こそは功績を挙げたという人物たちが多く、彼らへの恩賞、具体的には地位と土地(金銭)をどう配分するかで、もめにもめたのです。

また、後醍醐天皇が隠岐の島に流されている間に、倒幕活動の中心を担っていた後醍醐天皇の息子である護良親王(もりながしんのう)が、恩賞を約束する手紙を各地の武士たちに出していました。

この手紙を根拠に、恩賞を求める武士たちが京都に多くやってきました。

後醍醐天皇は、この手紙を全て否定して、一からやり直しをしようとしますが、複雑に絡まった利害関係を自分で調整できるだけの実務能力はありません。

結局、土地問題・恩賞問題について別組織に委ねることにします。

その組織の名前を「記録所」・「恩賞方」・「雑訴決断所」などといいます。最後の「雑多な訴訟」というネーミングに後醍醐天皇のイラつきが聞こえてきそうです。

また、恩賞問題以外においても後醍醐天皇が何か新しいことをしようとすると身内だと思われる貴族からも「それは前例にないことです」と否定されます。

後醍醐天皇はこう吐き出します。「朕が新儀は、未来の先例なり!」

朕とは天皇の自称です。自分がやる新しい儀式・様式は、未来において前例になるものなのだ。前例前例と口やかましく言うなという心のシャウトがそのまま言葉になりましたね。

後醍醐天皇という人物は、信念の人であることは間違いないのですが、やや単純というか目的に向かって猪突猛進に向かうタイプに感じます。

新しい政治をコツコツと積み上げるのが苦手だったと思われます。前言撤回が繰り返されていく中、武士の支持を失っていきました。

建武の新政は僅かな時間で大きく綻びを見せ始めます。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.215【自分勝手は滅びの元(建武新政の綻び、日本史通史)】)

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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