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#0244【新羅の太祖金春秋(武烈王)(朝鮮半島の王)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は朝鮮半島の歴代王朝の初代王様を紹介します。

朝鮮半島の歴史は、中国の支配郡に組み込まれていましたが、中国が混乱するとやがて独立した勢力へと成長していきます。
特に現在の中国東北部と北朝鮮にかけては「高句麗(こうくり)」、現在の韓国西部に「百済(くだら、ひゃくさい)」そして韓国東部に「新羅(しらぎ、しんら)」という三国に分かれて争っていました。

高句麗は非常に勇猛な国で先史時代の日本を蹴散らしたとの碑文が残されていたり、中国を再統一した隋や唐の大軍を追い払ったりしました。

百済は日本と非常に友好的な関係にあり、日本に漢字や仏教をもたらしたのは、百済経由だったと伝えられています。

新羅は北に高句麗、西に百済、そして南と東には海を挟んで百済の同盟国的な日本と敵対国に周りを囲まれている状態でした。

新羅の太祖(初代という意味)である金春秋は、非常に行動力に富んだ人物でした。新羅の国際的孤立を解消するために各国との外交交渉に励んだのはそもそも本人の力によるところが多く、滅亡前の高句麗や、日本の孝徳天皇などとも直接訪問したとの記録が残っています。

しかし、交渉はうまくいかず金春秋は、より強大な国と協力関係を結ぶことを狙います。お隣の中国です。

当時の中国は漢以来の安定的な中国再統一を果たした唐王朝の時代であり、唐王朝はさらに遊牧民族や周辺諸国との関係でも超大国としての地位を占めていました。

特に唐の二代目皇帝太宗は名君の呼び名も高く、戦争も負けなしといった人でしたが、しかしそんな唐も、前身である隋王朝も、高句麗には手を焼いていたのです。

金春秋は、唐に乗り込んで唐の太宗と直接会談を実施。648年に同盟を結ぶことに成功しました。650年には新羅独自の年号は廃止し、唐の年号を用います。

唐の後ろ盾を得た金春秋は、高句麗・百済との戦いを活発化し、大いに勢威を奮いました。金春秋は外交力だけでなく、政治力・軍事力にも長け、戦争に勝ち、占領地域の行政にも力を発揮します。

唐は、新羅の活躍をみて、いよいよ高句麗を倒そうと兵を起こします。新羅もそれに同調し、金春秋も自ら出兵し軍を北上させている途上で病死してしまいます。661年6月のことでした。

死後、武烈王と呼ばれることになった金春秋の死は唐の高宗(太宗の息子)も悼み、唐の副都といえる洛陽(後漢のときは中国の首都)で葬儀を行いました。

金春秋は覇業の途中で病死しましたが、新羅は唐と協力して高句麗と百済を滅亡させます。百済の遺民たちは、日本に救援を求めます。当時の日本は中大兄皇子が実権を握っており、朝鮮半島での友好国確保のために大軍を派兵します。

白村江の戦いが663年に行われますが、日本と百済遺民の合同軍は、唐・新羅連合軍の前に敗れさり、日本も多くの犠牲を払いました。

朝鮮半島の足場を失った日本は、その後北九州の防備を固めるために城壁を築いたり、防人(さきもり)という徴兵部隊の駐屯、さらに首都を内陸の滋賀大津に動かすなどします。

海外派兵の気概を失い、防備主体となります。ちなみに百済の王族や遺民はその後も日本で厚遇され、朝鮮半島の当時の先端技術などをもたらす集団として日本に定住。そして、今の天皇家には、桓武天皇の母系から百済王族の血が伝わっています。

668年新羅は遂に朝鮮半島を統一、中国の冊封体制(中国皇帝を盟主・君主と仰ぐ体制)においてではありますが、朝鮮半島初の統一政権となりました。

金春秋の外交力と決断力が今の朝鮮半島、朝鮮民族の原型を築いたとも言えます。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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