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#0248【命を捨てての旅に出る(フランシスコ・ザビエル)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は日本に影響を与えた欧米人を紹介しています。

フランシスコ・ザビエルの名前はおそらく多くの方が耳にし、その肖像画のイメージも残っているのではないでしょうか。

1549年に来日し、 キリスト教を伝来させたということが非常に有名だと思います。

ザビエルはイエズス会という宣教師組織の創設者の一人であり、大航海時代の先鞭をつけたポルトガルの王様の依頼を受けて、喜望峰(アフリカ大陸南端)を回ってインドのゴアに派遣されました。現地到着は1548年のこと。

そこで日本人ヤジロウと出会い、遠く日本への宣教を志します。

1549年には日本の薩摩半島に上陸、島津氏との面会によって布教を許されると宣教活動に勤しみます。九州各地を回ってキリスト教を広めていきます。

やがて日本の中心地で教えを広めたいと願い、1551年に日本到着から1年半を経て京都へと赴きました。

しかし、京都の朝廷は力を失い、御所(天皇の住まい)の壁は崩れて、遠くからでも中が見えたという記録をザビエルは残しています。

京都では布教に必要な保護(寺社からの攻撃を防ぐため)が得られないと考えたザビエルは山口に移動。当時の山口は中国や朝鮮半島との貿易で栄え、京都から避難してきた貴族たちを抱え文化面でも大きな力を持っていました。

ザビエルの時代より少し前ですが、水墨画で高名な雪舟(せっしゅう)も山口の大内氏の庇護を受けています。

ザビエルは布教の拠点として山口に目を付けると、多くの献上品を持参して大内氏と面会。見事、布教の許可を得ることができました。

2年の日本滞在を経て、1552年に一度インドへと戻ります。日本には自分ではなく別の人物を派遣し、自分は、中国への布教に取り組むことにしました。

日本布教のためには日本に大きな影響を及ぼしている中国への布教が欠かせないと考えたからです。

ザビエルは1552年9月に中国へと赴きますが入国が思うようにいかず、その地で病を発症。1552年12月に46歳の若さで亡くなってしまいました。

ザビエルの宣教活動によってインド・日本の多くの人々にキリスト教を広めたことから、カトリック教会は彼を聖人に列しています。

ザビエルの後も多くの宣教師が日本に来日し、様々な文物を日本にもたらしました。

九州ではキリシタン(キリスト教徒)が増え、戦国大名・戦国武士の中にもキリシタンがいました。

戦国時代が終わり豊臣秀吉による天下統一がなされると、外国勢力の伸長を嫌い、キリスト教禁教令が出されます。貿易の利益を損ねたくないとの想いもあり迫害等々はありましたが、厳しく徹底はされませんでした。

江戸時代になって三代将軍家光の時代に島原の乱が起きると一変。キリスト教の禁教令は厳しく徹底され、西欧との貿易も長崎の出島に限定されました。

踏み絵などにより隠れキリシタン探しが進められていきましたが、明治に開国しキリスト教禁教令が廃止されると江戸時代を通じて隠れキリシタンであり続けた人々が出てきて、日本を訪れた宣教師たちを感動させています。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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