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#0243【足利義満政治の否定・反動(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本史通史シリーズです。

前回:No.242【金閣寺と足利義満の野望(日本史通史)】

志半ばで死去した足利義満の跡は、長男の足利義持が主導権を握ります。父から征夷大将軍の地位は受け継いでいたものの、父の愛は弟の足利義嗣に注がれていました。

天皇が北山第(金閣寺一帯)に訪れた際に、義満は義嗣を侍らせ、義持には周囲の警護の任務を与えました。

父の死後、二人の対立は頂点へと達します。これに加えて、室町幕府は当初より関東地方への支配力が弱いという事情があり、関東地方には初代足利尊氏の四男の家系が関東公方として、関東一帯を支配していました。

関東でも義持派と義嗣派に分かれてしまい、双方の対立が頂点に達して、1416年に上杉禅秀の乱が関東で起きると義持派が勝利、義持は義嗣を殺害して権力を掌握。

義持が権力を握れた理由の一つは、父義満との対立とその政治を否定する姿勢を、有力大名たちが支持したことが大きかったといえます。義満は日本国内の全ての勢力を自分の統制下に置こうとして独裁的な政治を行ってきました。

義持は父への反感から、諸勢力を糾合した集団指導体制を築いていきます。中国皇帝の支配下にあることを示す「日本国王」の称号も中国に突き返しました。また、京都の北山(金閣寺一帯)に築いた官庁機能を解体します。

しかし、義満の政治方針の否定は、室町幕府中央の統制が緩むことに繋がりました。義満一人の独裁的体制から、有力者たちによる合議制となり、各自が自己の利益を優先するようになっていきます。

義持は早くに将軍の地位を息子の足利義量(よしかず)に譲り、自らは大御所的なポジションで求心力を得ようとしますが、義量は1425年に19歳の若さで酒毒でなくなります。その後、征夷大将軍不在の状態が続きます。

集団指導体制であるため、特に問題なく政治が進みましたし、中心となる人物は元征夷大将軍である足利義持ということで一致を見せていたからです。

ところが、義持が体調を崩し、明日をも分からぬ身となると周囲はざわめきます。

「一体、後任はどうなるのか」

義持には跡を継ぐべき男子は残っておらず、関東公方として関東を支配している足利持氏(初代室町将軍足利尊氏からみて孫の孫)が将軍就任に色気を見せます。一方、京都に駐在する有力武士である諸大名たちは鎌倉の勢力が強まることを嫌がります。

あっちを立てればこっちが立たずとなり、義持はなかなか後継ぎを明言しません。

いよいよ、このままではまずいと側近が義持にその意を告げて欲しいと訴えても、義持は「私が誰々が良いと言っても皆が従わなければ仕方がない」となります。

そして、側近は誰もが納得する方法として前代未聞の手段が取られることになりました。その手段とは「クジ引き」です。

義持には四人の弟がおり、僧侶となっていました。その四人の弟の名前が掛かれたクジを神前において引き、次の将軍が足利義満の五男義円に決定しました。

現代人の我々からすると、政治のトップをクジ引きで決めるなんてと思うところですが、逆に神前で引かれたことから当時の人々的には「神意」だと思う人もいれば、先ほど名前を挙げた鎌倉にいる関東公方の足利持氏としては「納得いかん」といった状態となります。

しかし義円は、有力大名たちの支持を取り付け、六代将軍になる予定で還俗(僧侶から一般人に戻ること)することとなりました。

後に「万人恐怖」「悪御所」と恐れられた足利義教(義円の還俗後の名前)です。

以上、今週の歴史小話でした!

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