#0176【元寇、文永の役(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は日本史通史シリーズです。
モンゴルが日本に襲来する前に激動の中国大陸について前回概括しました。

今回は【No.163:北条時頼と得宗体制】の続きからモンゴル襲来前の鎌倉幕府内の状況を確認します。

鎌倉幕府は北条氏が主導する体制を5代執権北条時頼の時に確立します。
時頼は、1256年に執権の地位を父の従兄弟である北条長時に譲りますが、実権は握り続けました。

しかし、その時頼が1263年に36歳の若さで世を去ります。

時頼の嫡男である北条時宗はまだ12歳でした。

北条家は実質的に鎌倉幕府を牛耳っていましたが、建前上はあくまでも鎌倉武士団の一員であり他の武士たちと違いはありません。

これまでの政権運営の実績と力で、圧倒しているだけです。

時頼の従兄弟の長時が執権では政権に揺らぎあると考えた北条氏は、時頼の大叔父である北条政村を執権に据えます。

時頼の祖父で三代執権であった北条泰時の弟です。

この間に大陸では、1259年に高麗がモンゴルに降伏、1260年にフビライ・ハンが即位して、ますます南宋への圧迫を強めていきました。

南宋の繁栄を支えている基盤は、貿易によるものです。

その貿易相手国である日本に対して、モンゴルは1268年にフビライ・ハンからの国書(手紙)を出してきます。

「モンゴルの言うことを聞きなさい。抵抗していた高麗も今は、モンゴルを親のように慕っていますよ。私としては武力を用いることはしたくないのだ。」

あまりにも高圧的な文言の羅列であり、鎌倉幕府と京都朝廷はこの無礼な国書に対して返事を書かないことを決めます。

同時に、モンゴルからの武力侵攻があり得るとして、執権を北条氏の本家当主(得宗といいます)である北条時宗に交代します。

時宗はまだ17歳であったため、前執権の政村が全面的にサポートします。

1271年にはモンゴルは国号を「元(げん)」に変更して、再度日本に国書をもたらします。

これに対しても拒絶をもって示し、九州に所領を持つ武士に領地に戻るよう指示し、現福岡県・佐賀県一帯の防備体制を整えていきます。

1274年11月(ユリウス暦)に元(モンゴル)と高麗の連合艦隊がやってきます。2週間の間に対馬と壱岐が攻撃を受けて、博多湾に上陸。

日本の武士たちは初めてみる「てつはう」などの火薬を使った武器に苦戦させられますが、何とか撃退をします。

「日本手強し」と見た元と高麗の連合艦隊は一旦、高麗へと戻ることを決めます。

冬の対馬海峡。

帰途に暴風にあって、被害が生じたと言われています。

これを日本では当時の元号をとって「文永の役」といいます。
「役」とは外国との戦争を意味すると思って頂いて構いません。

しかし、これは次の戦いへの序章だったのです。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.177【元寇、弘安の役】)

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