#0177【元寇、弘安の役(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。月初の日本史通史シリーズ。

対馬・壱岐での被害はあったものの、何とか一度は元・高麗連合艦隊を追い返すことに成功しました。

(前回:No.176【元寇、文永の役】)

実はこの時、中国大陸の方では南宋は滅んでいませんでした。元は、長江の重要拠点を1273年~1274年にかけて奪取していましたが、南宋の抵抗は続いています。

その合間に前回の文永の役(1274年11月)が起きていたのです。派遣された兵隊の数も3万人という規模でした。

元は、1276年に南宋の首都を陥落させます。1279年には遂に残党勢力の掃討にも成功し、南宋全域すなわち中国全域が元の手中となったのです。

フビライ・ハーンは1279年に南宋を滅ぼすと再び日本に使者を遣わします。

「南宋も滅びたぞ。悪いようにはしない。私の言うことを聞きなさい。」

というメッセージですが、これに対して鎌倉幕府、北条時宗は使者を打ち首にして回答としました。

徹底抗戦の構えです。戦いが起きることは明白でした。京都の朝廷では、諸寺に異国降伏の祈祷を命じます。筥崎宮(在福岡市)には亀山上皇自らが外敵退散を祈願し、神門に「敵国降伏」の額を掲げさせました。

1281年夏に元・高麗連合艦隊に加え、旧南宋の艦隊も日本に攻めてきました。総勢15万人と目されています。

日本も1274年の第一回目の侵攻から1281年までの間に、祈祷だけをしていたわけではありません。海岸部に防塁(石築地)を築いて、防御体制を固めていました。

戦いは1か月を超えて推移します。日本の武士たちの抵抗によってなかなか上陸して陣地を確保できないまま、やがて台風がやってきます。

神風が吹き、暴風雨に荒れた艦隊は粉砕され、外敵は退散したのです。

北条時宗は二度の元寇を撃退した後、1284年に33歳の若さで亡くなります。元寇対策のためにその人生を費やしたかのような生涯でした。

さて、無事に撃退することに成功しましたが、フビライ・ハンは三回目の日本遠征を検討していました。これは財政難などによって結局実現されませんでしたが、日本には大きな問題が残りました。

恩賞問題です。

撃退しただけであり、新たな領地を獲得したわけではありません。命を張って戦った武士の奉公に、どうやって御恩(褒美)を与えるか。

しかも始末に悪いことに撃退したのは「神」によるものとして、祈祷したお寺や神社までも恩賞を求める始末です。

京都の朝廷は外敵退散ができたのは、亀山上皇の筥崎宮へ額を掲げさせたことによるものと考えていました。

北条時宗は、その功績を認められて30区分のグレードの中で12番目(正五位下)に昇進しました。1265年に与えられた13番目(従五位上)のグレードから一階級上げてもらったのです。

何とも軽いご褒美です。明治29年1896年になって、北条時宗の功績が再評価されて2番目のグレード(従一位)が追贈されました。

混乱をみせる恩賞問題。日本の歴史はどう動いていくのでしょうか。
続きは来月の月初です。

以上、今週の歴史小話でした!

(続き:No.187【無い袖は振れないけれど(御家人の没落と徳政令)】)

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