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#0216【理念先行・現実無視の結果(建武新政の崩壊、日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズ。鎌倉幕府崩壊後の後醍醐天皇による後醍醐天皇(とその側近達)のための政治は大きく綻びを見せました。

(前回:No.215【自分勝手は滅びの元(建武新政の綻び)】)

京都が遠い陸奥(東北地方)と鎌倉(関東地方)に将軍府をつくり、後醍醐天皇の息子たちがそれぞれ将軍として赴任していました。

しかし、行き当たりばったりのその場しのぎの政策ばかりを実施する京都の政権に対して各地の不満が頂点に達します。

そんな状態で、旧鎌倉幕府の中心であった北条家の生き残りが蜂起し、鎌倉を占拠します。

後醍醐天皇の息子とその補佐役たちは鎌倉を脱出。その際に幽閉されていた護良親王は殺されてしまいます。

敵(旧鎌倉幕府)に担がれてはまずいとの補佐役たちの判断でした。幽閉されていたとはいえ、護良親王は後醍醐天皇の実子です。補佐役たちは旧鎌倉幕府の手によって殺害されたかのように偽装します。

さて、鎌倉を失陥した後醍醐天皇は慌てます。鎌倉を取り戻すために武士への人気が高い足利尊氏に討伐を命じますが、尊氏は恩賞を自由に与える権限が欲しいといったため、一旦宙に浮きます。

ちなみに鎌倉にいた後醍醐天皇の息子の補佐役には足利直義(ただよし)がついていました。彼は尊氏の実弟です。

実弟の懇願もあり、尊氏は建武政権すなわち後醍醐天皇の命令を受けずに、鎌倉に向かいます。

そして、尊氏の力によって、鎌倉の残党勢力は駆逐されました。命令を受けずに鎌倉を奪い返した尊氏は、今度は自分自身が鎌倉を拠点として独立する動きをみせ始めます。

具体的には、鎌倉を奪い戻すにあたって功績のあった自分の部下に、恩賞を勝手に渡し始めたのです。

その配分した土地の中には、尊氏のライバルである新田義貞の土地も含まれていましたが、尊氏は義貞の力を削ぐ目的もあり、しれっと配分を始めたのです。

足利家と新田家は先祖を辿れば、源氏です。源義家という源氏の勢力を拡大した人物の息子義国の子どもに足利義康と新田義重の二人がおり、その後継が足利尊氏と新田義貞なのです。

ちなみに源義家→義親→為義→義朝→頼朝と源氏の嫡流(本家)は流れていきますが、頼朝の家系は断絶してしまいます。

鎌倉幕府で権勢を誇った北条家との姻戚関係もあり、足利家は鎌倉時代を通じて、源氏の中でも特別な存在とされていました。

そういった関係もあり、足利尊氏と新田義貞は同族でありながら先祖代々に亘って犬猿の仲だったのです。

この二人の争いはやがて京都中央にも波及していきます。

既に後醍醐天皇の命令に従わない武士たちが足利尊氏に糾合し始めています。

後醍醐天皇は鎌倉に居座って半年になる尊氏に命令違反は咎めないから京都に戻っておいでと伝えますが、尊氏はこれを拒否します。

京都から建武二年(1335年)12月に新田義貞が尊氏討伐にやってきますが、尊氏はこれを撃破。逆に京都に攻め込みます。

鎌倉幕府を滅亡させたのが1333年。鎌倉を北条氏に再占拠されたのが1335年。この間わずか二年。そして、1336年には足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻し、日本列島は血で血を争う抗争の時代へと進んでいきます。

以上、月初の日本史通史シリーズの歴史小話でした!

続きはまた来月の月初です。

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