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#0163【北条時頼と得宗体制(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本史通史シリーズです。

前回:No.144【北条泰時と御成敗式目】
(1月第一週目は今年の大河ドラマにちなんだ特集を行いました。昨年12月以来の配信です。)

さて、源頼朝が1192年に征夷大将軍となり、名目ともに成立した鎌倉幕府ですが、源氏将軍は三代で滅んでしまいました。

それ以降、幕府の実権は有力武士である「御家人(ごけにん)」たちによって動かされていきますが、その中で最も勢力が強かったのが頼朝の妻北条政子の実家である北条氏でした。

まだ頼朝と政子の次男である三代将軍源実朝の時代に、政子の父が執権(しっけん)という地位を得て、幕府政治の切り盛りをしていきます。

鎌倉幕府には、御家人を統治する侍所(さむらいどころ)と政治を行う政所(まんどころ)という二つの機構がありました。

北条氏に対する反感が強かった侍所長官、和田義盛が1213年に反北条氏の兵を挙げましたが、失敗して戦死。

北条義時(政子の弟)が執権の地位と侍所の長官、そして政所の長官となりました。さらに1219年の実朝暗殺、1221年の承久の変を経て北条氏の権勢はますます強まりました。

しかし、北条氏はあくまでも御家人の代表です。

四代目の将軍には京都の名門貴族である九条家から九条頼経を迎えていました。

執権の地位は義時の息子、北条泰時へと移り1232年には御成敗式目という法律を制定し、鎌倉幕府の政治体制は固まったように見えました。

ところが、1242年に泰時がなくなるとその孫の経時が執権の座につきますが1246年に若くして亡くなります。

五代目には経時の弟の北条時頼が就任しますが、当時わずか19歳。

これまで北条氏に抑えられていた前将軍九条頼経(1244年に将軍位を息子の九条頼嗣に譲っていました)やその他の有力御家人たちが権力闘争を北条氏にけしかけます。

ここに北条氏の次に権勢を誇っていた有力御家人である三浦一族が加担します。

若僧と思われていた北条時頼ですが、執権就任早々に九条頼経を京都に追放、翌1247年には宝治合戦で三浦一族の排除に成功します。

その後、北条一族の内部でも覇権争いがあり、時頼排除に加担した将軍九条頼嗣を1252年に京都へ追放し、六代目将軍に後嵯峨天皇の息子宗尊親王(むねたかしんのう)を迎えいれます。

北条時頼は、1256年に執権の地位を父の従兄弟である北条長時に譲りますが、実権は握り続けます。

北条家の家長のことを得宗(とくそう)と呼ぶようになりますが、幕府公式の地位である執権よりも北条家の家長である「得宗」が権力を握る得宗体制が確立し、北条家によって鎌倉武士団が統率される体制が整ったのです。

これが、この後、日本を襲う未曽有の国難である「蒙古襲来」、元寇(げんこう)に国が一丸となって対処できる素地となったのです。

元寇については、来月取り上げます。次回は鎌倉新仏教について取り上げます。

以上、本日の歴史小話でした!

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