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#0171【黄門様も若い頃はヤンチャでした(徳川光圀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。江戸時代初期の名君特集、最後は水戸黄門として有名な徳川光圀(みつくに)を紹介します。

徳川光圀は、徳川御三家(名古屋・和歌山・水戸)の一つ水戸藩の藩祖徳川頼房(家康の十一男)の三男に生まれます。

正妻を迎える前に頼房は、若くして次々と子どもを儲けました。

光圀の二人の兄のうち、一人は幼児でなくなっていました。もう一人の兄は庶子(家督相続権のない子ども)として届け出がされる一方、光圀に対しては、妊娠発覚時になんと、「堕胎せよ」との命令が頼房から出されたのでした。

正妻を迎えた後にその夫人との間に息子が生まれたときのことを考えてのことだったのかもしれません。

ただ、結果として、堕胎はされずに家臣宅において徳川光圀は誕生しました。しかし、出生届は特段出されないままでした。

頼房は結局、正妻を迎えませんでした。

そうすると兄が後継者として任命されそうなものですが、なんとここで光圀が後継者となりました。

理由は兄は既に「庶子」として届け出が済んでしまっていたからです。

光圀は堕胎命令が出されながらも世に生まれ、そのために出生届が出されませんでした。認知すらしてもらえなかったゆえに「嫡子(家督相続権のある子ども)」となったのです。

兄を差し置いて、徳川御三家の一つ水戸藩の世継ぎとなったのでした。

光圀はこの状況を非常に悩んでいたと思われ、若い頃にはぐれて勉学にも目をくれず、悪童たちと辻斬り(現代でいえば、ホームレス狩り、オヤジ狩り。江戸時代のことなので、金銭だけでなく命も奪っていました)をするなど、のちに名君と呼ばれる姿からは程遠い青春時代でした。

しかし、彼は史記における伯夷伝を読み、人生観が一変します。

この伯夷伝では、兄と弟がともに君主の位を譲り合う姿が描かれており、またその過程において勉学に励む姿勢が示されていたのです。

想像でしかありませんが、世の中に対して腐ってみたところで事態が変わるわけではないと光圀は考えたのかもしれません。

彼は誰にでも認められる程の教養を高めることに注力します。

そして、父の死後、水戸藩主となった光圀は前代未聞の行動に出ます。

なんと、兄の息子を自分の養子にしたのです。本来であれば兄が後継ぎとなるところを自分がその地位を奪ってしまった。なので、息子の世代でその地位を返還したのです。

ちなみに自分の息子は、兄に養子に出しています。まさに血統の交換を行ったのでした。

のちに水戸義公と呼ばれる、面目躍如です。ちなみに水戸黄門の黄門は彼の官職である中納言の中国風の呼び名です。

ドラマや講談・小説における水戸黄門とは異なり、本人は関東から出たことはありません。

大日本史という歴史書編纂にあたって全国各地に部下を派遣したことから、講談の下になる「ご隠居」が生み出されたものと推察されます。

なお、この大日本史ですが光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、なんと完成したのは明治時代に入ってからのことでした。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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