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#0215【自分勝手は滅びの元(建武新政の綻び、日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズです。

意気揚々と天皇中心の政治を志した後醍醐天皇でしたが、彼のやりたかった政治は、厳しい言い方をすれば「天皇中心」の政治というよりも、「自分のワガママを貫きたい」政治と言えると思います。

(前回:No.214【言行不一致が不信感へ(建武新政の不安定な門出)】)

行きあたりばったりの政策、寵臣・寵妃(お気に入り)たちへの過度な恩賞。好き嫌いで物事を決めてしまう点などは、完全に自己コントロールを失った暴君の気質でした。

こんな彼に優秀なブレーンがいれば、事態は好転したかもしれませんが、武士から天下を奪い返したという気分でいる貴族たちでは、時代の潮流を掴むこともままなりません。

唯一、武士の心を掴んでいた皇族として、前線で戦っていた自分の息子、護良親王がいましたが、彼のメンツは彼が約束した恩賞を天皇に否定されたことからズタボロになり、求心力を一切失ってしまいました。

一説によれば後醍醐天皇は、武士顔負けに武芸にいそしむ護良親王のことを好ましく思っていなかったとも言われています。

一時は、征夷大将軍に任じられていた護良親王でしたが、後醍醐天皇に対して謀反を企んでいるとされて、捕縛されます。そして、その身柄は鎌倉へと護送され鶴岡八幡宮の裏にある岩牢に幽閉されます。なお、この岩牢跡が現在も鶴岡八幡宮にあります。

さて、思い返してみれば、鎌倉幕府が出来た元々の理由は、土地所有権の問題を京都の朝廷・貴族では取り扱えなかったため、武士たちが自分で権利関係を確保するためでした。

後醍醐天皇は、京都の朝廷や貴族の在り方に口出しをしてくる鎌倉幕府が気に入らずに滅ぼしましたが、その代替手段を持ち合わせていませんでした。代わりに、時代に逆行した貴族優先の政策をうっていきます。

鎌倉幕府に不満はもっていたものの、武士である功績者たちの心はだんだんと後醍醐天皇から離れていってしまいます。

一時は、「雑訴」まで取り扱うセクションをつくったものの、ほとんど訴訟が持ち込まれないようになりました。

後醍醐天皇の側近たちは、これは問題が解決していったのだろうと思い込みましたが、訴訟の件数が減った理由は別にありました。

「京都の朝廷に持ち込んでもどうにもならん」

現代においても役に立たない施設や役所・サービスは使われません。

京都の朝廷・貴族では政治が成り立たないと、皆に見放されていってしまったのです。権威が崩れ果てると統制が取れなくなります。

京都への不平が高まり、機は熟したとみた旧鎌倉幕府の中心であった北条家の生き残りが信濃(現:長野県)で蜂起します。そして、瞬く間に鎌倉を占拠するに至りました。

ここから建武新政の綻びは修正不可能なほどに大きくなっていきます。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.216【理念先行・現実無視の結果(建武新政の崩壊、日本史通史)】)

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